『最後に笑う男』(さいごにわらうおとこ)は、1949年2月28日公開の日本映画。監督は安田公義。京マチ子、二本柳寛が大映入社後の第1作として知られる[1]。京マチ子の映画デビュー作とされることもあるが、誤りである[2]。
監督 | 安田公義 |
---|---|
脚本 | 柳川真一 |
出演者 | 滝沢修 |
音楽 | 西梧郎 |
撮影 | 石本秀雄 |
製作会社 | 大映京都 |
配給 | 大映 |
公開 | 1949年2月28日 |
上映時間 | 123分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
- 大庭 峰吉:滝沢修 - 東洋曲芸団のピエロ
- 飛鳥 太郎:二本柳寛 - 人気の空中ブランコ乗り
- 飛鳥 みどり:日高澄子 - 太郎の妻
- 飛鳥 三郎:伊達三郎 - 太郎の弟
- 由美:京マチ子 - 東洋曲芸団の団員
- 秋山 専次:藤井貢 - 東洋曲芸団の団長
- 泉 良三:杉狂児 - 東洋曲芸団の楽隊
- 島 義雄:加東大介 - 東洋曲芸団の団員
- 春子:野々宮由紀
- 菅原都々子
- 葛木香一[3]
- 小柳圭子[3]
- 寺島貢[3]
フル動画前編
後編
1945年(昭和20年)12月14日、久保栄・薄田研二とともに東京芸術劇場を結成し、翌1946年(昭和21年)に『人形の家』で旗揚げするが、1947年(昭和22年)3月に帝劇で『林檎園日記』を初演後、久保との対立から森雅之、信千代と脱退し、同年7月28日に森、宇野重吉らと第一次民衆芸術劇場(第一次民藝)を結成する[6][7][8]。同年、吉村公三郎監督の映画『安城家の舞踏会』に没落華族の当主・安城忠彦役で主演、それ以降映画出演も多くなる。
1947年(昭和22年)、本名で松竹京都撮影所製作の高木孝一・沢田正平両監督映画『踊り子劇場』に出演し、芸能界に復帰。1948年(昭和23年)、大映に入社。芸名も二本柳寛と改名して、1949年(昭和24年)2月に公開された安田公義監督映画『最後に笑う男』で主演を務めた滝沢修の敵役が入社第一作となる[2][3][4]。
劇団の分裂と集合の内輪ネタ映画みたいな。
滝沢修が道化という自虐ネタみたいな。
動く菅原都々子、見たいか?