『あにいもうと』は、1953年(昭和28年)8月19日に公開された日本映画。製作・配給は大映。大映東京撮影所で制作された。モノクロ/スタンダード/モノラル。上映時間は87分、映倫番号:1004。
室生犀星の小説『あにいもうと』の映画化作品の一つ。『秋立ちぬ』、『浮雲』の成瀬巳喜男が監督、脚本は成瀬との作品も多い、水木洋子が担っている。出演は『羅生門』の京マチ子、『野火』の船越英二、浦辺粂子などである。なお、当時、映画監督を志していた田中絹代が監督見習いとして参加し、成瀬監督から映画作法、演出術を学んでいる。1953年度キネマ旬報ベストテン第5位。
1976年には、水木による脚本で同原作の映画が製作・公開されている。
監督 | 成瀬巳喜男 |
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脚本 | 水木洋子 |
原作 | 室生犀星 |
出演者 | 京マチ子 森雅之 久我美子 |
音楽 | 斎藤一郎 |
撮影 | 峰重義 |
編集 | 鈴木東陽 |
製作会社 | 大映 |
配給 | 大映 |
公開 | 1953年8月19日 |
上映時間 | 87分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
- 企画:三浦信夫、市川久夫
- 監督:成瀬巳喜男
- 原作:室生犀星
- 脚本:水木洋子
- 撮影:峰重義
- 美術:仲美喜雄
- 録音:西井憲一
- 照明:安藤真之助
- 音楽:斎藤一郎
- 装置:小宮清
- 装飾:尾上芳夫
- 小道具:永川勇吉
- 背景:中村桂太郎
- 園芸:阪根音次郎
- 工作:田村誠
- 電飾:金谷省吾
- 技髪:鈴木英久
- 結髪:篠崎卯女賀
- 衣裳:堀口照孝
- 音響効果:花岡勝次郎
- 移動:小野秀吉
- スチール:椎名勇
- 記録:堀本日出
- 俳優事務:中山照子
- 撮影助手:中尾利太郎
- 録音助手:三橋真
- 照明助手:田熊源太郎
- 進行係:阪根慶一
- 編集:鈴木東陽
- 助監督:西條文喜、富本壮吉
- 製作主任:西澤康正
- もん:京マチ子
- さん:久我美子
- 伊之吉:森雅之
- 赤座:山本礼三郎
- りき:浦辺粂子
- 小畑:船越英二
- 鯛一:堀雄二
- とき子婆さん:本間文子
- 貫一:潮万太郎
- 喜三:宮島健一
- 豊五郎:山田禅二
- 坊さん:河原侃二
- 茶店の客:高品格
フル動画前編
後編
カラー化フル動画
1889年(明治22年)、金沢市裏千日町に生まれる[2]。加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種と、その女中であるハルの間に私生児として生まれた[注釈 2]。生後まもなく、生家近くの雨宝院(真言宗)住職だった室生真乗の内縁の妻、赤井ハツに引き取られ、ハツの私生児として照道の名で戸籍に登録された。住職の室生家に養子として入ったのは7歳のときであり、この時から室生照道を名乗ることになった。私生児として生まれ、実の両親の顔を見ることもなく、生まれてすぐに養子に出された生い立ちは、犀星の文学に深い影響を与えた。「お前はオカンボ(妾を意味する金沢の方言)の子だ」と蔑まれた犀星は、生みの母親についてのダブルバインド(二重束縛)を背負っていた[要出典]。『犀星発句集』(1943年)に収められた
- 「夏の日の匹婦[3]の腹に生まれけり」
との句は、犀星自身50歳を過ぎても、このダブルバインドを引きずっていたことを提示している[要出典]。
1936年(昭和11年)1月「文藝懇話會」の機関誌『文藝懇話會』発刊。編集同人に参加。2月長篇『聖處女』[注釈 36]、詩集『十返花』刊行[注釈 37]。「龍宮の掏児」を『文藝春秋』3月号に発表。4月随筆集『薔薇の羹』刊行[注釈 38]。6月純粹小説『弄獅子』刊行。6月随筆集『印刷庭苑』刊行。8月「あにいもうと」が木村荘十二監督、ピー・シー・エル映画製作所製作、東宝配給で映画化され封切。
「あにいもうと」は、室生犀星が1934年に発表した短編小説。
『文藝春秋』1934年7月号にて発表、1935年1月刊行の『神々のへど』所収。同年の第1回文芸懇話会賞受賞作。室生犀星の養母・赤井ハツをモデルとする赤座もんを主人公に、元々仲が良かったが、妹の妊娠を機に激しく対立する兄妹の複雑な愛情を描く。
- 赤座 - 川仕事の人夫頭。
- りき - 赤座の妻。
- 伊之助 - 赤座の長男(28歳)。
- もん - 赤座の長女(23歳)。
- さん - 赤座の次女。
- 小畑 - 書生(24歳)。
1953年に成瀬巳喜男監督、京マチ子主演で映画化、1972年に山田洋次脚本、渥美清・倍賞千恵子出演でテレビドラマ化されるなど、たびたび映像化されている。
日曜劇場「あにいもうと」|ドラマ・時代劇|TBSチャンネル - TBS
水木 洋子(みずき ようこ、本名:高木富子、1910年(明治43年)8月25日 - 2003年(平成15年)4月8日)は、日本の脚本家。映画監督の谷口千吉は元夫。1913年(大正2年)生まれを自称していた。
24歳で父と死別してから家族を支えるために脚本を執筆するようになる。当初は舞台の脚本を書いていたが、戦時中はラジオドラマの脚本を主に手掛けるようになった。
1938年12月、都内の乃木神社で当時東宝の助監督だった谷口千吉と挙式するが、翌年10月に協議離婚をした。
戦後、かつてのロシア語の師で、大御所脚本家になっていた八住利雄に映画の脚本を書くよう勧められ、1949年『女の一生』が映画デビュー作品となる。
その後女性の視点から見たヒット作を多数描き、特に文芸作品の脚色で多くの傑作を遺した。キネマ旬報ベストテン1位を4回受賞するなど、戦後の日本映画黄金時代を代表する脚本家である。林芙美子原作・成瀬巳喜男監督の『浮雲』(1955年)などは名高い。
大阪市出身[2][1]。早稲田大学露文学科卒業[2][1]。卒業後、しばらくはロシア文学の翻訳家、築地小劇場などの新劇運動を経て[1]。