監督 | 野村浩将 |
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脚本 | 野田高梧 |
原作 | 川口松太郎 |
出演者 | 田中絹代 上原謙 |
音楽 | 万城目正 |
製作会社 | 松竹(大船撮影所) |
配給 | 日活 |
公開 | 1938年9月15日 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
- 高石かつ枝 - 看護婦:田中絹代
- 津村浩三 - 津村病院長の御曹司:上原謙
- 津村竹子 - 浩三の妹:森川まさみ
- 敏子 - かつ枝の娘:小島和子
- 服部美也子 - 服部の妹:高杉早苗
- さだ枝 - かつ枝の姉:吉川満子
- 津村保樹 - 浩三の父:藤野秀夫
- 津村清子 - 浩三の母:葛城文子
- 津村春樹 - 浩三の叔父:河村黎吉
- 津村さだ枝 - 浩三の姉:吉川満子
- 吉川副院長:坂本武
- 佐藤看護婦長:岡村文子
- 峰沢治子:出雲八重子
- 若井たつ子:草香田鶴子
- 最賀米子:東山光子
- 恩田しげ子:忍節子
- 濱田徳子:久原良子
- 木村医学士:大村健二
- 少年の患者:爆弾小僧
- 寺島医学士:西村青児
- 服部医学士:佐分利信
- 木村かつ子:水戸光子
- 岡島 - レコード会社専務:斎藤達雄
- 婆や:高松栄子
- 中田博士 - 津村保樹の友人:三桝豊
- 中田夫人:青木しのぶ
- 美知子 - 津村保樹の令嬢:桑野通子
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愛染かつらの由来
川口松太郎の小説『愛染かつら』の題名は、当寺所蔵の愛染明王像と桂の木に由来している[2]。
愛染堂・愛染かつらゆかりの地 - 谷中 自性院 公式ホームページ (yanaka-jishoin.jp)
この桂の木に触れた男女が誓い合うと成就するらしい。
いわゆる愛染明王の姿の特徴は、一面三目・六臂で、頭上には獅子の冠を頂き、冠の上には五鈷鉤が突き出ていて、その身は赤色で宝瓶の上にある紅蓮の蓮華座に、日輪を背にして座っている。これらの相が示すその象徴的な意味は以下のようになる。[10]
- 燃え盛る日輪を「織盛日輪」と言い、日輪は仏のもつ無上の浄菩提心を表し、燃え盛る炎は智火が煩悩に基づく執着や愛欲をことごとく焼き尽くし、その「愛染三昧」の禅定が不退転となる仏の勇猛心であることを表している。
- 頭上に獅子の冠を頂き、髪の毛を逆立てて怒髪天を突くさまを表すのは、百獣の王である獅子が吼えるとあらゆる猛獣もすぐに静かになる譬えのように、憤怒の怒りの相と獅子吼によって諸々の怨敵を降伏して、一切衆生を救済することを表している。
- 冠の上に五鈷鉤が突き出ているのは、衆生の本有(ほんぬ)の五智を呼び覚まして、邪欲を捨てさせて正しい方向へと導くことを意味し、愛染明王の大愛[注 5]が衆生の心に染み入り、仏法の真実を体得せしめることを表している。
- 一面三目で身体が赤色であり、その身を五色の華鬘で荘厳する点は、三つの眼は法身と般若と解脱を意味し、世俗面においては仁愛と知恵と勇気の三つの徳を表す。身体が赤く輝いているのは、愛染明王の大愛と大慈悲とがその身体からあふれ出ていることを意味し、五色の華鬘でその身を荘厳するのは、五智如来の持つ大悲の徳を愛染明王もまたその身に兼ね備えていることを意味し、両耳の横から伸びる天帯[注 6]は、「王三昧」に安住して如来の大法である真理の教えを聞くことを表している。
- 六臂として手が六本あるのは、六道輪廻の衆生を救う意味をもつ。また、左右の第一手は二つで「息災」を表していて、左手の五鈷鈴は、般若の智恵の音と響きにより衆生を驚愕させて、夢の如きこの世の迷いから覚醒させることを表し、右手の五鈷杵は、衆生に本有の五智を理解し体得させて、愛染明王の覚りへと到達せしめることを表している。[11]
- 左右の第二手は二つで「敬愛」と「融和」とを表していて、左手の弓と右手の矢(箭)は、二つで一つの働きをするので、この世の人々が互いに協力して敬愛と和合の精神を重んじ、仏の教えを実践する菩薩としての円満な境地に至ることを意味している。また、愛染明王の弓矢は、大悲の矢によって衆生の心にある差別や憎しみの種を射落とし、菩提心に安住せしめることを意味し、そして矢は放たれるとすぐに目標に到達することから、愛染明王への降魔や除災、男女の縁結び[12]における祈念の効果が早く現れることをも表している。
- 左右の第三手は二つで人生の迷いや煩悩による苦しみの世界を打ち払う「増益」と「降伏」とを表していて、左手に拳を握るのは、その手の中に摩尼宝珠を隠し持っていて、これは衆生が求めるあらゆる宝と財産や、生命を育むことを意味していて、右手の赤い未敷蓮華(みふれんげ)は、それらの衆生の財産や生命を奪おうとする「四魔」[注 7][14]に対して、大悲の鞭を打ち振るい、魔を調伏することを表している。
- 愛染明王が座っている紅蓮の蓮華座は、「愛染三昧」の瞑想から生じる大愛の境地を実現させた密教的な極楽浄土を意味していて、その下にある宝瓶は、仏法の無限の宝である三宝を醸し、経と律と論の三蔵を蔵することを表している。また、その周囲に宝珠や花弁が乱舞するのは、愛染明王が三宝の無尽蔵の福徳を有することを意味している。
更に、愛染明王は一切衆生を諸々の苦悩から救うために十二の広大な誓願を発しているとされ、その内容は以下のようになる。[15]
- 智慧の弓と方便の矢を以って、衆生に愛と尊敬の心を与えて、幸運を授ける。
- 悪しき心を加持して善因へと転換し、衆生に善果を得せしめる。
- 貪り・怒り・愚かさの三毒の煩悩を打ち砕いて、心を浄化し、浄信(菩提心)を起こさしめる。
- 衆生の諸々の邪まな心や、驕慢の心を離れさせて、「正見」へと向かわせる。
- 他人との争いごとの悪縁を断じて、安穏に暮らせるようにする。
- 諸々の病苦や、天災の苦難を取り除いて、信心する人の天寿を全うさせる。
- 貧困や飢餓の苦悩を取り除いて、無量の福徳を与える。
- 悪魔や鬼神・邪神による苦しみや、厄(やく)を払って、安楽に暮らせるようにする。
- 子孫の繁栄と、家運の上昇、信心する人の一家を守って、幸福の縁をもたらす。
- 前世の悪業(カルマ)の報いを浄化するだけでなく、信心する人を死後に極楽へ往生させる。
- 女性に善き愛を与えて良い縁を結び、結婚後は善根となる子供を授ける。
- 女性の出産の苦しみを和らげ、その子のために信心すれば、子供には福徳と愛嬌を授ける。
川口 松太郎(かわぐち まつたろう、1899年(明治32年)10月1日 - 1985年(昭和60年)6月9日)は、日本の小説家、劇作家。本名松田松一とする資料もある[1]。東京市浅草区生まれ。芸道物、明治物、時代物、現代風俗物と広く執筆。巧みな筋立てと独自の話術で庶民情緒を描いた大衆小説で多くの読者を獲得した。また、松田昌一の名で映画・演劇脚本も手がけ、大映専務などを務めた。特に、新生新派の主事として自作小説の脚色や演出を担当、昭和期の新派に欠かせない人気作家となり、作品の多くは新派の代表的演目となった。第1回直木賞受賞者で、映画化され大流行した『愛染かつら』の作者としても知られる。芸術院会員。文化功労者。
後妻は女優の三益愛子。三益との子は俳優の川口浩(長男)、川口恒(次男)、川口厚(三男)[2]、元女優で陶芸家の川口晶(国重晶)(長女)。
正直、話は怠い。テレビドラマを観てる感じ。
新聞小説と言われたら、引き延ばしてなんぼだろうから、自分の方が世界からズレてる。
愛染明王に女性を幸福にすると言われても、あの顔に言われたんじゃ。
当時のマジョリティの感覚にしてみれば普通なんだろうけど。
日本の言論を統制するのに宗教界を掌握するのは必須。
同時に女性層を取り込む言論工作のようにも視えるこの映画。
ラスト、謎のアイドル歌手オチ。
田中絹代の吹き替え担当はミス・コロムビアこと松原操 - Wikipedia
松原 操(まつばら みさお、1911年3月28日 - 1984年6月19日)は主に戦前期に活躍した女性流行歌歌手。戦前まではミス・コロムビアという名でも活躍した。1939年に歌手・霧島昇(本名:坂本栄吾)と結婚。
1911年(明治44年)3月28日、北海道小樽区(現・小樽市)生まれ。東京音楽学校(現:東京芸術大学)卒業後、1933年(昭和8年)、コロムビアのオーディションに合格。当時、ビクターの小林千代子がデビュー当時に「金色仮面」として売り出したところ話題を呼び、後にヒット歌手となったことから、コロムビアも松原操を売り出すために「ミス・コロムビア」という覆面歌手として、宣伝の写真にも目隠しをして『浮草の唄』で彼女をデビューさせた。
松原操として歌った『婦人愛国の歌』『兵隊さんよありがとう』などがヒットする一方で、1938年(昭和13年)、デビュー間もない霧島昇と歌った松竹映画『愛染かつら』の主題歌『旅の夜風』と『悲しき子守唄』がミス・コロムビアとしての最大のヒット曲となる。映画『愛染かつら』自体が爆発的な人気となり、続編、完結編が製作されると、『愛染夜曲』『朝月夕月』『愛染草紙』『荒野の夜風』と一連の主題歌が合わせて発売され、いずれもヒットしている。映画の中では、田中絹代が歌うシーンの吹き替えを松原操が担当したが、当時はアフレコの技術があまり世間に知られていなかったため、田中自身が歌っていると勘違いをする観客も多かったという。『愛染かつら』はこの後も、劇中で歌った『ドリゴのセレナーデ』が、松原操の名前で改めてレコードが発売され、さらには、霧島昇、渡辺良らと『愛染物語』という短編映画にも出演するほどのブームとなったのである。
『旅の夜風』のヒットで、《愛染コンビ》と呼ばれた霧島昇との共演が多くなり、『一杯のコーヒーから』『愛馬進軍歌』『愛染夜曲』が続けてヒット。ステージや巡業の機会が多くなったことから、3歳年下の霧島昇との関係が親密となっていった。そして、1939年(昭和14年)暮れ、作曲家・山田耕筰夫妻の媒酌によって、人気歌手同士の結婚が成立したのである。
1940年(昭和15年)以降も、「結婚後は人気が落ちる」という通説を覆し、『目ン無い千鳥』『愛馬花嫁』などのヒットを続けるが、内務省からのカタカナ名前の芸名を禁じる指令の対象となり、ミス・コロムビアとしての活動に終止符を打ち、松原操として活躍を続けた。家庭と仕事を両立させ、戦時中も『大空に祈る』『いさおを胸に』などをレコーディング。また、スクリーンにおいても、1939年の松竹映画『純情二重奏』をはじめ、1940年には同じく高峰三枝子が主演した松竹映画『信子』にも音楽教師役として演じた。
戦前日本が戦争へと暴走を始めたきっかけは昭和恐慌による貧困だと思うけど、宗教層と女性層が炎上させたんじゃないかと疑ってる。
この映画がヒットした背景にそういうのがあったんだろうと。