東京のえくぼ : 作品情報 - 映画.com (eiga.com)
三ツ木プロと新東宝の提携によって青柳信雄と高木次郎とが製作を担当、「水色のワルツ」で青柳信雄と共同監督に当たった松林宗恵が監督に当たっている。撮影は「惜春(1952)」の小原譲治である。出演者の主なものは「朝の波紋」の高峰秀子、「惜春(1952)」の上原謙、「恋の応援団長」の小林桂樹、丹阿弥谷津子の他、柳家金語楼、古川緑波、小倉繁などである。
1952年製作/87分/日本
劇場公開日:1952年7月15日
フル動画前編
後編
ノーカット動画
島根県江津市桜江町(元邑智郡桜江町)[1]の浄土真宗の寺の五男に生まれる。小学校から井原村満行寺(現・邑智郡邑南町)に移り、中学は広島新庄中学に入学して2年生から広陵中学(現・広陵高校)に転校し、広島市へ出た。1938年に卒業した後には京都へ進み、1941年に龍谷大学専門部を卒業[1]。日本大学芸術学部に移り[1]、在学中の1942年には映画に仏心を注入したいと考え[要出典]、東宝演出助監部に入る[1]。
1943年、学部を短縮卒業して[要出典]海軍第3期兵科予備学生となり[1]、1944年には海軍少尉に任官され、部下150名を連れて南支那廈門島の陸戦隊長となる。戦後は復員して東宝への復職を経て、東宝争議に際し渡辺邦男や斎藤寅次郎らに従って新東宝に移った[1]。
1952年に上原謙主演の『東京のえくぼ』で初監督[1]。藤本真澄プロデューサーの東宝復帰に伴い、1955年に新東宝を退社して東宝に復帰[1]。以降は、森繁久彌主演の『社長シリーズ』をはじめとする喜劇や『連合艦隊』をはじめとする戦争映画など、多岐にわたる68本の劇映画を監督した[1]。
成城学校(新宿区原町)卒業後、1929年に立教大学入学、学生時代は大学内のオーケストラでトランペットを吹き活躍する。
オペラハット?
そして1938年、川口松太郎原作、野村浩将監督のメロドラマ『愛染かつら』の津村浩三役で田中絹代と共演、霧島昇とミス・コロムビアが歌う主題歌「旅の夜風」と共に、空前の大ヒット作となる[1]。
しかし、上原自身はこの映画を自分の出演作の中で最も嫌いな映画と明言していて、当初、この映画の脚本を読んだ時、その理屈では到底考えられないような展開にばかばかしくなり、役を降りようとさえ思ったという。その後、続編も作られるほど、この映画で上原の人気はさらに高まったが、同時に役柄も制限されるようになり、良くも悪くも『愛染かつら』は俳優・上原謙の代表作といえる。
小馬鹿にされてるかのような展開ではあるけれど、観客は鉄板を要求しているらしい。
次は「愛染かつら」
主題歌