剣聖 暁の三十六番斬り : 作品情報 - 映画.com (eiga.com)

剣聖 暁の三十六番斬り

荒木又右衛門の三十六人斬りを描く時代劇。松木功と北村秀敏のオリジナル・シナリオを、「剣豪相馬武勇伝 桧山大騒動」の山田達雄が監督、「関八州大利根の対決」の川崎喜久三が撮影した。主演は、「桂小五郎と近藤勇 竜虎の決戦」の嵐寛寿郎、「死刑囚の勝利」の前田通子、「人形佐七捕物帖 大江戸の丑満刻」の和田孝、「リングの王者 栄光の世界」の中山昭二。ほかに辰巳柳太郎、舟橋元、天知茂、丹波哲郎、竜崎一郎など。

 

1957年製作/78分/日本
配給:新東宝
劇場公開日:1957年4月30日

 

監督
脚本
松木功
 
北村秀敏
企画
竹中美弘
撮影
川崎喜久三
美術
宮沢計次
音楽
真鍋理一郎
録音
片岡造
照明
石森浩

 

5月10日12:59まで視聴可

 

 

鍵屋の辻の決闘 - Wikipedia

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鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)は、寛永11年11月7日1634年12月26日)に渡辺数馬荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎伊賀国上野の鍵屋の辻(現三重県伊賀市小田町)で討った事件。伊賀越の仇討ちとも言う。

 

寛永7年(1630年)7月21日[注釈 1]岡山藩池田忠雄が寵愛する小姓渡辺源太夫に藩士・河合又五郎が横恋慕して関係を迫るが、拒絶されたため又五郎は逆上して源太夫を殺害してしまった[2]。又五郎は江戸へ逐電、旗本安藤次右衛門正珍にかくまわれた。激怒した忠雄は幕府に訴え出て又五郎の引渡しを要求するが、安藤次右衛門ら旗本衆[注釈 2]はこれを拒否し、忠雄を中心とする外様大名と旗本らの争いに発展した[1]

しかし、寛永9年(1632年)4月、忠雄が疱瘡のため急死した。よほど無念だったのか、死に臨んで又五郎を討つよう遺言する。池田家では子の光仲が家督を継いだが、幼少のため因幡国鳥取へ国替えとなる。藩は国替えとなったが数馬は仇討ちのためにこれに従わず脱藩した[3]。同年7月、渡辺数馬は備前小島から大和国に向かった[注釈 3]

数馬は姉婿で剣術の達人でもある荒木又右衛門に助太刀を依頼[4]

数馬らは江戸や京都など東海道を行き来して又五郎の探索を行った[4]。寛永10年(1633年)4月26日、数馬は江戸に向かい、又五郎の伯父の河合甚左衛門とも出会っている[注釈 4]

寛永11年(1634年)11月、数馬ら渡辺方は又五郎の居場所を突き止めた(『江城年録』では11月4日に又五郎の宿を知ったとし、『渡辺数馬於伊賀上野敵討之節荒木又右衛門保和助太刀打候始末』では11月5日に又五郎一行が江戸に向かおうとしているのを知ったとする)[1]

そして11月7日、小田町の伊賀上野城下の入口にある鍵屋の辻で決闘は行われた[1][4]。数馬ら渡辺方は『累世記事』や『江城年録』、『渡辺数馬於伊賀上野敵討之節荒木又右衛門保和助太刀打候始末』の記述に4人とあり、具体的には渡辺数馬と荒木又右衛門、数馬若党の森(岩本)孫右衛門及び岡本(河井)武右衛門の4人であった[1]

一方の河合方は『江城年録』や『渡辺数馬於伊賀上野敵討之節荒木又右衛門保和助太刀打候始末』では11人としており、河合甚左衛門(『江城年録』では河合勘左衛門)のほか、桜井半兵衛や虎屋九左(右)衛門らがいた[1]。ただし、『累世記事』では「川合方」としており人数は10人としている[1]

仇討は早朝からおよそ6時間に及び、この時の死者は渡辺方(数馬側)が1人、河合方(又五郎側)が又五郎を含め4人だった[4]。後世には又右衛門の「36人斬り」が語られたが史実ではない[4]。又右衛門の従者として仇討に加わり渡辺方(数馬側)で唯一亡くなった河合武右衛門の墓が伊賀市の念仏寺にある[5]

見事本懐を遂げた数馬と又右衛門は世間の耳目を集めた。特に、実質仇討ちを主導した荒木又右衛門は賞賛を浴びた。『渡辺数馬於伊賀上野敵討之節荒木又右衛門保和助太刀打候始末』によると、3人は彦坂嘉兵衛に引き取られた後、藤堂式部さらに藤堂出雲守に預けられたという[1]。この間、鳥取藩が引き取るか、旧主の郡山藩が引き取るかで紛糾。結局、3人は鳥取藩が引き取ることになり、寛永15年(1638年)8月7日に伊賀を出発して伏見を経て鳥取へと向かった[1]。8月13日、3人は鳥取に到着するが、その17日後に鳥取藩は又右衛門の死去を公表した。又右衛門の死があまりに突然なため、毒殺説、生存隠匿説など様々な憶測がなされている。

 

 

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伊賀の水月(1958) : 作品情報 - 映画.com (eiga.com)

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アラカンは翌年、明治大帝になる。

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嵐寛寿郎 - Wikipedia