『箱根風雲録』(はこねふううんろく)は、1952年(昭和27年)3月14日公開の日本映画である。新星映画社・前進座製作、北星映画配給。監督は山本薩夫。モノクロ、スタンダード、137分。
監督 | 山本薩夫 |
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脚本 | 楠田清 平田兼三 山本薩夫 |
製作 | 松本酉三 宮川雅青 |
出演者 | 河原崎長十郎 中村翫右衛門 轟夕起子 山田五十鈴 |
音楽 | 大木正夫 |
撮影 | 前田実 仲沢半次郎 |
編集 | 河野秋和 |
製作会社 | 新星映画社 前進座 |
配給 | 北星映画 |
公開 | ![]() |
上映時間 | 137分 |
製作国 | ![]() |
言語 | 日本語 |
- 監督:山本薩夫
- 製作:松本酉三、宮川雅青
- 脚本:楠田清、平田兼三、山本薩夫
- 撮影:前田実、仲沢半次郎
- 照明:平田光治
- 美術:本木勇、江坂実
- 録音:長岡憲治、安惠重遠
- 音楽:大木正夫
- 編集:河野秋和
- 特殊撮影:圓谷英二
- 協力監督:小坂哲人、楠田清
- 友野与右衛門:河原崎長十郎
- 蒲生玄藩:中村翫右衛門
- 快長僧正:河原崎國太郎
- 大庭源之丞:瀬川菊之丞
- 捨吉:坂東春之助
- 河原崎しづ江
- 坂東調右衛門
- 橘小三郎
- 中村進五郎
- 市川菊之助
- 中村公三郎
- 市川岩五郎
- 松本染升
- 与右衛門の妻リツ:山田五十鈴(特別出演)
- トラ:飯田蝶子(特別出演)
- マツ:岸旗江(特別出演)
- 玄藩の妾サヨ:轟夕起子(特別出演)
- 三島雅夫
- 老中保科正之:清水将夫(民芸)
- 岡田豊前守:石黒達也(第一協団)
- 妻木彦右衛門:清水元(第一協団)
- 弘文院学士林大学頭:嵯峨善兵
- 加藤嘉
- 大老酒井雅楽頭:薄田研二(中央芸術劇場)
- 林孝一(中央芸術劇場)
- 野々村潔(中央芸術劇場)
- おまんの方:内田礼子(中央芸術劇場)
- 沼崎勲(東京演技者集団)
- 島田敬一(東京演技者集団)
- 花沢徳衛(東京演技者集団)
- 島田屯(東京演技者集団)
- 市川笑太郎
- 谷晃
フル動画前編
後編
戦前から映画会社と提携して映画を製作してきた前進座の戦後第2作目。原作はタカクラ・テルの小説『ハコネ用水』(理論社、1951年)[1]で、幕府に幾度も妨害を受けながらも箱根用水を建設した農民と民衆の物語である。
水の奔流シーンの特撮は円谷英二が担当したが、予算がないため、撮影所の庭に設けた掘割にたらいで水を流して撮影したものの、土が水を吸ってしまい、意図した画にはならなかったという[2][3]
1891年4月14日、高知県高岡郡口神ノ川(戸籍上は幡多郡七郷村浮鞭)生まれ。 本名は高倉輝豊、のちに輝と改名した。国語国字改革を推進する立場から「タカクラ・テル」と自称した。 入野高等小学校、宇和島中学校(現愛媛県立宇和島東高等学校)、第三高等学校から京都帝国大学英文科に進み、1916年、京都帝国大学を卒業[2]し、新村出教授のもとで1922年まで同大学の嘱託。
ロシア革命の影響を受け、河上肇によってマルクス主義に接近。戯曲や翻訳を手がけ、やがて著述家として独立した。 1986年4月2日、膵臓がんのため波瀾に富む94年の生涯を閉じた。墓は高知県幡多郡大方町(現黒潮町)浮鞭東押屋敷にある。
1934年に保釈されてからは東京に住み、のち国民文学論の提唱とともに国語国字合理化運動を開始、みずからもカタカナ書きを実践した。 革命的ローマ字運動事件、ゾルゲ事件等に関連して再三検挙、逮捕された[注 1]。 その間、長編小説「大原幽学」や「箱根用水の話」を始め数々の創作・評論を発表。 1959年、加太こうじ、柳田邦夫、佐藤忠男、福田定良らと「大衆芸術研究会」を創設。
その後、中国に渡航し、徳田球一らが結成した北京機関に参加。さらにソ連その他を転々とした後、1959年4月に帰国すると直ちに政治活動、文筆活動を開始した。翌1960年8月から東京に移住、小説「たまをあらそう」や新曲じょうるり「佐倉義民伝」・「まんざい」・「唐人お吉」その他、歌劇「山城国一揆」などがある。
政治的にはソ連共産党に追随することが多く、日本共産党が自主独立路線を確立したのちは、主流をはずされた。日本共産党中央委員会顧問。
戦後、高倉輝の主張する国語国字改革は、一時日本共産党の主な方針となり、その機関誌「アカハタ」(現在の「しんぶん赤旗」)も1952年から1966年までカタカナ表記であった。この高倉輝の国語国字改革は共産党内部からも批判を受けた。 高倉輝のいう国語国字改革は、現時のカナモジカイの主張と似ているが、カタカナの使用は固有名詞に限定していた。したがって「タカクラ テル」「アカハタ」となる。
歴史小説「ハコネ用水」は1952年、前進座によって「箱根風雲録」として映画化された。
音楽大木正夫 - Wikipediaがソ連映画でワロタ。ていうかキモイ。
江戸時代前期の1666年に工事開始。1670年に完成し、以降現在に至るまで、裾野市、御殿場市、長泉町および清水町の一部事務組合である芦湖水利組合により、灌漑用水、生活用水、防火用水、東京発電による深良川第一発電所の水力発電用水として利用している。しかし現在は2級河川の芦ノ湖の管理者は河川法により神奈川県となっている。全長は1,280メートル。芦ノ湖の水門から、湖尻峠付近の地下を通り、神奈川・静岡県境を越え、狩野川水系黄瀬川支流の深良川に注いでいる。
江戸の商人・友野与右衛門
駿河国(静岡県)の深良村が水不足で困っているのをみて、寛文3年(1663年)2月に同志2人とともに箱根権現に立願状を提出、続いて小田原藩や幕府の沼津代官に芦ノ湖の水を引き、灌漑し、新田開発すべく請願し、陳情を行った。寛文6年(1666年)に申請は認められ、7月(一説に8月)に地元の名主大庭源之丞に資金提供して大工事に着手した。多くの困難にもめげず、ついにトンネルを貫通し、寛文10年(1670年)4月(一説に2月)用水路を完成した。後に用水経営を巡るトラブルから幕府によって江戸への帰還を命じられ、その後鈴ヶ森刑場で打ち首となったと伝えられている[1]。
映画では幕府が工事を妨害したことになってるけど、実際には完成後の水利権トラブルで処罰されたらしい。