『お嬢さん社長』(おじょうさんしゃちょう)は1953年12月29日公開の日本のコメディ映画。松竹大船製作、モノクロ、スタンダード、93分。
監督 | 川島雄三 |
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脚本 | 富田義朗 柳沢類寿 |
製作 | 久保光三 |
出演者 | 美空ひばり 佐田啓二 月丘夢路 |
音楽 | 万城目正 |
主題歌 | 「若い歌声」 |
撮影 | 西川享 |
編集 | 斉藤正夫 |
製作会社 | 松竹大船 |
配給 | 松竹 |
公開 | 1953年12月29日 |
上映時間 | 93分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
- 企画:福島通人
- 製作:久保光三
- 監督:川島雄三
- 脚本:富田義朗・柳沢類寿
- 撮影:西川享
- 照明:高下逸男
- 録音:妹尾芳二郎
- 美術:梅田千代夫
- 音楽:万城目正
- 編集:斉藤正夫
- 振付:縣洋二
- 装置:古宮源蔵
- 装飾:守谷節太郎
- 現像:林竜次
- 衣裳:斉藤耐三
- 監督助手:中平康
- 進行:新井勝次
- 小原マドカ - 美空ひばり
- 秋山五郎 - 佐田啓二
- 貝谷由美子 - 月丘夢路
- 小原重三郎 - 市川小太夫
- 桜川一八 - 坂本武
- 並木敬吾 - 大坂志郎
- 桜川三八 - 桂小金治
- 森川お杉 - 桜むつ子
- 森川菊子 - 小園蓉子
- 貝谷経理部長 - 有島一郎
- 安田専務 - 多々良純
- 赤倉千造 - 清水一郎
- 三戸宣伝課長 - 永井達郎
- 森川松造 - 竹田法一
- ガマ六親分 - 高屋朗
- その子分 - 稲川忠完
- 怪しげな外人 - 小藤田正一
- 運転手・怪しげな外人 - 青木富夫
- 歌劇スタア - 江川滝子
- 八卦見のおかみさん - 水木涼子
- 医者 - 小林十九二
- 家庭教師 - 奈良真養
- 婆や - 高松栄子
- 女子社員 - 戸川美子
- テキ屋 - 大杉陽一
- 高瀬乗二
- 南近一郎
- 草香田鶴子
- 高友子
- 仲摩篤美
- 長尾敏之助
- 中川健三
- 津村準
- 手代木国雄
- 横山準一
- 人見修
- 千葉晃
- 舟川享
- 長尾寛
- 長谷部朋香
- 後藤泰子
- 谷川浩子
- 田代芳子
- 河合百合子
- 佐々木恒子
- 水谷重子
- 渡規子
- 三原京子
- 東逸子
フル動画前編
後編
この作品がきっかけ?
いや、既に立ちあがってる。
1951年、松竹『あの丘越えて』で人気絶頂の鶴田浩二が扮する大学生を慕う役を演じたが、実生活でも鶴田を慕い、ひばりは鶴田を“お兄ちゃん”と呼ぶようになった。同年5月新芸術プロダクション(新芸プロ)を設立。代表取締役社長が福島通人、役員にひばり、川田晴久、斎藤寅次郎がそれぞれ就任した。
1953年、『お嬢さん社長』に主演。喜美枝は、ひばりを「お嬢」と呼ぶようになり、その後、周囲もそう呼ぶようになった。1954年7月、正式に契約していなかった松竹から[7][8][9]、初代中村錦之助と一緒に[10][11]、映画3本で1000万円と破格の条件で東映と映画出演の専属契約を結ぶ[8][11][12]。契約時に田岡一雄が同席し凄んだ[8][9][12][13][14]。この交渉時で子どもながら気丈なひばりに将来性を予見した岡田茂(のち東映社長)は[12]、ほぼ一回り年下のひばりの世話係をしながら[15]、歌の実演や地方興行などと撮影のスケジュール調整をやりつつ[15]、ひばり作品の量産体制に入った[16]。中村錦之助と映画「ひよどり草紙」で共演[17]。二人が組んだとき、岡田は「これはいける」とピンときた[15]。東映のツキ初めはここであった[10]。錦之助は翌年、東映時代劇の大スターとなった。この後、新人男優がひばりの相手役となることは、大スターへの登竜門のように言われた。錦之助とひばりは、共演後にたちまち恋仲となり周囲が猛反対した[17]。それでも別れないため田岡一雄が困り果て、岡田茂に頼み、岡田が諄々とふたりを諭して別れさせた[18]。晩年でもひばりは、錦之助の話が出ると顔が赤くなったと言われ[19]、1961年11月27日に銀座東急ホテルで錦之助と有馬稲子の結婚式があった日に、加藤喜美枝の使いが「すぐ来てくれ」と岡田に頼み、浅草国際劇場で公演期間中だったひばりがもの凄い仕立ての着物を着て、「錦之助と有馬稲子の披露宴に行く」と言い張っていて、岡田が「明日のスポーツ紙の一面になるじゃない!ひばりちゃん、そんなことダメだよ、やめなよ」と説得したらひばりは号泣し[19]、「あんた長い人生、まだまだあるじゃないか。錦之助が結婚したからって何だ。だいいち錦之助と結婚したら歌舞伎界のおかみさんだよ。いちいち部屋を回ってな、よろしくお願いします、よろしくお願いします、なんて挨拶してまわることなんかあんたに出来るんかい」と言ったら、「ほっといてよ、そんなこと!」と強気だった[19]。
1958年、歌手で女優の美空ひばりが芸能界の育ての親である福島通人経営の新芸術プロダクション(新芸プロ)から独立し、ひばりプロダクションを設立。社長は美空ひばり、役員は山口組3代目田岡一雄、母・加藤喜美枝、小野満が就く。田岡一雄経営の神戸芸能社傘下になる。1981年、ひばりの弟であるかとう哲也が社長に就任。1983年、哲也が死去。1989年6月24日、設立者である美空ひばりが特発性間質性肺炎の症状悪化による呼吸不全のため52歳で死去。
1989年以降はひばりの養子であり、かとう哲也の実子の加藤和也が社長に就き[1]、ひばりが残した遺産・版権を管理。
1947年に横浜国際劇場がオープンすると、その支配人となり美空ひばりと出会う。1949年のひばり出演映画『のど自慢狂時代』、『踊る龍宮城』および主題歌の『河童ブギウギ』、『悲しき口笛』のプロデュースにかかわる。1950年には妻の母校・精華学園に美空ひばりを入学させ、1951年には新芸術プロダクションを設立して社長になり、1952年には歌舞伎座では女性初となるリサイタルを企画。さらに『テネシーワルツ』でデビューした江利チエミ、雪村いづみと美空ひばりを加え三人娘を結成し、ジャンケン娘として売り出した。歌舞伎座から中村錦之助、大川橋蔵を引き抜き、東映で活躍した。また、新芸プロに入社面接に来た高倉健を東映俳優にしている。その後はクラウンレコードの設立に携わった。