健児の塔 : 作品情報 - 映画.com (eiga.com)

健児の塔 |一般社団法人日本映画製作者連盟

「ひめゆりの塔(1953)」の姉妹篇の形をとって、元沖縄一中生徒の手記、沖縄朝日新聞の資料により「残侠の港」の佐伯清がシナリオ化、「玄海の鰐」の小杉勇、「暁の市街戦」の春原政久が共同監督している。「ギラム」の星島一郎、「玄海の鰐」の小杉太一郎がそれぞれ撮影、音楽を担当した。「地雷火組(1953)」の石井一雄、東宝より最近東映入りした田代百合子を中心に、「喧嘩笠(1953)」の轟夕起子、「暁の市街戦」の三島雅夫、「天馬往来」の龍崎一郎、「明日はどっちだ」の舟橋元、「むぎめし学園」の東恵美子などが出演する。

 

1953年製作/101分/日本
配給:東映
劇場公開日:1953年9月7日

 

監督
 
脚本
佐伯清
企画
栄田清一郎
撮影
星島一郎
美術
丹羽勝
音楽
小杉太一郎
録音
大谷政信
照明
伊藤ケイ市

 

フル動画前編

後編

 

轟夕起子 - Wikipedia

轟夕起子生誕100年で記念展 華麗な生涯に光 | おでかけトピック | 兵庫おでかけプラス | 神戸新聞NEXT

昭和15年(1940年)、マキノ監督と結婚、長男正幸誕生。

 

小杉勇 - Wikipedia

小杉 勇

小杉 勇(こすぎ いさむ、本名・小杉助治郎、1904年2月24日 - 1983年4月8日)は、日本の映画俳優映画監督

1925年日活京都撮影所に入社する。当時の日活は看板スターであった鈴木傳明岡田時彦などが去り、新しいスターを必要としていた。また、左翼思想の台頭などもあり、たくましさも兼ね備えた小杉が新しい時代を象徴する存在として注目された。

まず、1929年、新鋭内田吐夢監督の『生ける人形』で新しいヒーロー像を体現し、阿部豊の『女性讃』、村田実の『この太陽』で傾向映画の新しいヒーローとして第一人者となった。

その後、映画、『限りなき前進』、『真実一路』などの傑作に主演し、特に、田坂具隆監督と組んだ『路傍の石』や『土と兵隊』では重厚な演技を見せてナンバーワン男優の地位を不動のものとした。

映画「警察官フランス語版)」1933年(昭和8年)左から中野英治、小杉勇

戦後は映画監督に転じ、東横映画東映を経て、日活で数多くの娯楽作品を撮った。その一方、俳優としても他監督の作品にも出演した。

 

 

佐伯清 - Wikipedia

佐伯 清

1945年(昭和20年)1月、榎本健一 の『天晴れ一心太助』で監督デビュー[1]東宝争議をきっかけに新東宝へ、1952年(昭和27年)に東映へ。主に東映京都撮影所で時代劇を撮るが[1]、1958年(昭和33年)以降は東映東京撮影所での現代劇が中心となる。プログラムピクチャーの監督として、バラエティーに富んだ作品を数多く残している。1963年(昭和38年)は千葉真一主演の『柔道一代』、『白い熱球』を監督した。1965年(昭和40年)、高倉健主演の『昭和残侠伝』を演出[1]。以降20本の任侠映画を生み出す[1]。1972年(昭和47年)12月30日に封切られた『昭和残侠伝 破れ傘』が、劇場用映画最後の作品となった。

 

1960年代後半からの東映のポルノ路線、1973年(昭和48年)『仁義なき戦い』以降の任侠路線から実録路線転換にハラを立て[3]、1975年(昭和50年)に『キネマ旬報』誌上で、「現実に日本全国で起こっているやくざの抗争、こんなものは箸にも棒にも掛からぬ程汚くて、僕のドラマの対象にはなりません。乾ききった今日の世相風俗、毎日の流行に目を血走しらせて、自分の足元を見ない若者達、私は何本かの実録ものやポルノ映画を見ましたが、あんな汚らしい映画の中から、果たして次に何が生まれて来るのでしょう。SEX、実録、それも結構、でも、せめて映画ではもっと夢やロマンを見つけたいと思いませんか!」などとぶちまけた[3]

 

 

経営危機の東映を救った映画

ひめゆりの塔 (1953年の映画) - Wikipedia

これの仕掛け人が

マキノ光雄 - Wikipedia

戦時中、大陸慰問公演に出た嵐寛寿郎満映を訪ねたが、ここには「最右翼」と呼ばれた甘粕正彦大尉の下に、元共産党関係の映画人が多数いて、アラカンは「満洲には白昼ユーレイが出よると、気味が悪くなった」という。「得体の知れない闇の部分があった」というこの満映に、マキノ光雄までがいたが、アラカンによると「これは共産党やおまへん、たんなる助平だ」ということで、「いざ、浩然の気を!」と掛け声をかけて「さあ、葉村屋(アラカン)はん、豪遊と行きましょうかと「遊んでばかりやった」という。「払いは甘粕理事長持ち」と言うマキノに、アラカンは気持ちが悪いと「ワテよしときますわ、あとで祟ると怖い」と断るのだが、マキノは「そらあべこべや、断った方が恐ろしい、心配せんと国の金を盛大に使うたらええんだ」と意に介さず、連日宴会を繰り広げた。「白系ロシアの女がいて、裸踊りのキャバレーで二次会」、根岸寛一も同様で、マキノは「夜の帝王」の異名をとって大モテだったという。アラカンは「浩然の気を使い過ぎて、満州で体を壊した。あの人が若死にした理由はそれやと思いま」とマキノについて語っている[2]

 

早死にしなければ「次期東映社長」といわれていた。中村錦之助東千代之介大川橋蔵高倉健らの俳優を売り出す一方で、満州で苦労をした内田吐夢に『血槍富士』(1955年)を撮らせている。やる気をなくし麻雀ばかりしていた若き日の深作欣二らを怒ることもなく、みんなで集まりエロ話をして笑わせていたという。また、製作会議で起用しようとした映画監督(一説に今井正とされる)が思想的に「左翼であるから」と嫌う周囲を笑って、「右も左もあるかい。わいは大日本映画党じゃ」と言い放ったという。

 

 

沖縄師範健児之塔 - 沖縄県営平和祈念公園 (heiwa-irei-okinawa.jp)

沖縄師範健児之塔