続丹下左膳 : 作品情報 - 映画.com (eiga.com)
スタッフ、キャストとも前篇「丹下左膳(1953)」と同じ顔ぶれである。
1953年製作/89分/日本
配給:大映
劇場公開日:1953年9月1日
フル動画前編
後編
一度ブログに書いてる。
二度見しても(?)
時代的な背景から類推するとGHQに禁止されてたチャンバラが解禁になって、殺陣をエンジョイする映画を作ってしまったか。やたら捕り方が御用だ御用だやってたのは、国家による弾圧を象徴的に描いたか、ポン中ヤバくて脳汁垂れ流した結果か。
1945年(昭和20年)の太平洋戦争終結後、日本が連合国軍最高司令官総司令部(GHQ))の占領統治下に置かれると、GHQは教育文化政策を担当する民間情報教育局(CIE)を設置し、さらに民間検閲支隊(CCD)を置いて、日本映画は二重の検閲を受けることとなった[45]。その政策により、CIEから日本映画に対して13の規制項目が出されて(これが俗にチャンバラ禁止令と呼ばれている)、日本刀を振り回す剣劇(チャンバラ時代劇)は軍国主義的として、敵討ちなど復讐の賛美はアメリカ合衆国に対する敵対心を喚起するとして、こうした要素がある映画は一時製作が制限された。チャンバラ場面が禁止されたため、阪東妻三郎や片岡千恵蔵などの時代劇スターは現代劇に主演[注釈 32]し、戦前『鞍馬天狗』をヒットさせた嵐寛寿郎の場合は剣戟のない推理物の時代劇『右門捕物帳』でしか、舞台も映画もできなかったと語っている[46]。しかしそんな時代でも時代劇は製作されていた。戦後最初に作られた時代劇は丸根賛太郎監督の『狐の呉れた赤ん坊』で終戦の年の10月に公開されている。
この数々の制約を受けた特定の時期に撮影が出来た時代劇の傾向として次の4つが挙げられる。1番目は俗に「戦争反省映画」と言われているもので、例として嵐寛寿郎主演で稲垣弘監督『最後の攘夷党』が挙げられる。これは、幕末の攘夷運動に加わった浪士が西洋人に助けられて排外主義の愚かさに気づくストーリーであった。2番目は「既成のヒーロー像の破壊」であり、あるいはそれまでの任侠のイメージを変えるものとして松田定次監督『国定忠治』や吉村公三郎監督『森の石松』があり、特に『国定忠治』は正義感の強い民主主義的な人物として描かれていた。3番目は「剣戟や立ち回りシーンの無いもの」で市川右太衛門主演『お夏清十郎』などの恋愛ものがその例であり、4番目はその「剣戟や立ち回りシーンを回避した映画」で前述の『右門捕物帳』や伊藤大輔監督、阪東妻三郎主演『素浪人罷通る』などであった。しかし戦前からの時代劇を見慣れた観客にとっては「肝心なところが欠けている」と見なされていた[47]。
1948年(昭和23年)1月15日、松竹、東横、大映の京都撮影所は「剣で事件を解決する時代劇は、民主主義建設途上の大衆に誤解を与える」として、今後、時代劇を作らないことを発表した[48]。
そして1951年(昭和26年)9月の講和条約成立で自由に時代劇が作れる時代に入ると、それまで蓄積されていたエネルギーが爆発したようにどっと時代劇映画が溢れ、時代劇映画の歴史で最も輝く時代の始まりであった。
それは占領時代に作られた黒澤明監督『羅生門』の受賞からスタートした。そしてこの『羅生門』はベネチア映画祭でグランプリを獲得した。1952年(昭和27年)に占領体制が終わると、どっと時代劇映画の量産が始まった。溝口健二の『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』『近松物語』、黒澤明の『七人の侍』、衣笠貞之助の『地獄門』が製作されて時代劇映画の黄金時代の幕開けであった。嵐寛寿郎は再び『鞍馬天狗』に出演していった。
関の孫六作
「乾雲」と「坤龍」の二刀を指す
- 「姓は丹下、名は左膳」で有名な隻眼隻腕の剣客、丹下左膳が所持している架空の二振りの名刀。林不忘の時代小説「青空文庫:丹下左膳-乾雲坤竜の巻」に登場する。
関の孫六の作に、大小二口の稀代の業物がある。ともに陣太刀作りで、鞘は平糸巻き、赤銅の柄に刀には村雲、脇差には上り竜の彫り物があるというところから、大を乾雲丸(けんうんまる)、小を坤竜丸(こんりゅうまる)と呼んでいるのだが、この一対の名刀は小野塚家伝来の宝物で、諸国の大名が黄金を山と積んでも、鉄斎老人いっかな手放そうとはしない。
- 「乾雲」と「坤龍」は二刀揃って始めて名刀足りえるという。しかも、それぞれの刀の持ち主は戦う宿命にあり、過去の例では斬られる側は決まって乾雲の持ち主という。
二つの刀が同じ場所に納まっているあいだは無事だが、一朝乾雲と坤竜が所を異にすると、凶の札をめくったも同然で、たちまちそこに何人かの血を見、波瀾万丈、恐ろしい渦を巻き起こさずにはおかないというのだ。
- 丹下左膳は、片目と引き換えに「乾雲」を入手する。
- 乾雲は二尺三寸。
左手に取った乾雲丸二尺三寸に、今しも血振るいをくれているところ。
- 「乾雲」と「坤龍」が二刀揃っていないとき、乾雲は血を求めるために左膳は辻斬りを繰り返してしまう。
一対におさまっていれば何事もないが、番を離れたが最後、絶えず人血を欲してやまないのが奇刃乾雲である。その剣心に魅し去られて、左膳が刀を差すというよりも刀が左膳をさし、左膳が人を斬り殺すというよりも刀が人を斬り殺す辻斬りに、左膳はこうして毎夜の闇黒をさまよい歩いているのだったが、ちらと乾雲の刃を見ると、人を斬らずにはいられなくなる左膳、このごろでは彼は、夜生温い血しぶきを浴びることによってのみ、昼間はかろうじていささかの睡眠に神気を休め得るありさまだった。
小野家伝来?
丹下左膳像は小野忠明 - Wikipediaを盛って創ったキャラ?