陽気な渡り鳥 - Wikipedia

陽気な渡り鳥

陽気な渡り鳥』(ようきなわたりどり)は、1952年(昭和27年)1月1日公開の日本映画である。モノクロスタンダードサイズ映倫番号:587。

 

監督 佐々木康
脚本 伏見晁
原作 伏見晁
製作 小出孝
出演者 美空ひばり
斎藤達雄
淡島千景
音楽 万城目正
主題歌 「陽気な渡り鳥」(美空ひばり)
撮影 厚田雄春
編集 浜村義康
製作会社 松竹
公開 日本の旗 1952年1月1日
上映時間 83分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
配給収入 8347万円[1]
  • 監督:佐々木康
  • 脚本・原作:伏見晁(雑誌「ロマンス」所載)
  • 製作:小出孝
  • 音楽:万城目正
  • 撮影:厚田雄春
  • 美術:熊谷正雄
  • 編集:浜村義康
  • 録音:妹尾芳三郎
  • 照明:高下逸男
  • 現像:林龍次
  • 装置:佐須角三
  • 装飾:星野武
  • 衣裳:斎藤耐三
  • 監督助手:穂積利昌
  • 撮影助手:川又昴
  • 録音助手:堀義臣
  • 照明助手:八鍬武
  • 録音技術:金子盁
  • 進行:清水富二
  • 応援出演:松竹歌劇団
  • 和舞振付:花柳啓之、花柳瀧三
  • 洋舞振付:縣洋二
  • 殺陣:堺駿二
  • 奇術指導:松旭斎天洋
「陽気な渡り鳥」「涙のはぐれ鳥」(コロムビアレコード)
作詞:和田隆夫 / 作曲:万城目正 / 歌:美空ひばり

 

 

フル動画前編

後編

 

美空ひばり - Wikipedia

美空ひばり 1952(昭和27)年公開映画「陽気な渡り鳥」 - YouTube

1948年2月、神戸松竹劇場への出演に際して、神戸での興行に影響力を持っていた暴力団・三代目山口組組長の田岡一雄に挨拶に出向き、気に入られた[5][注釈 2]。同年5月、まだ無名の存在であった11歳の少女・ひばりの才能を見込んだ当時人気絶頂のボードビリアン川田義雄(のちの川田晴久)に横浜国際劇場公演に抜擢された。川田はひばりをそばに置いてかわいがり、また、ひばりも川田を「アニキ」と呼びよく懐いていた。ひばりは川田に大きな影響を受けており、節回しを川田節から学んでいる。専門家による声紋鑑定でも二人の節回し、歌い方が一致する結果が出ている。ひばりは「師匠といえるのは父親と川田先生だけ」と後に語っている。

画像 : 美空ひばりの師匠・川田晴久・まとめ - NAVER まとめ

川田一座では当時のスター歌手笠置シヅ子物真似(歌真似)が非常にうまく“ベビー笠置”と言われ拍手を浴びる。純粋に「かわいい」と見る層がいた一方、「子供が大人の恋愛の歌を歌うなんて」という違和感を持つ層も存在した。詩人作詞家サトウハチローは当時のひばりに対し「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」と、批判的な論調の記事を書いている[注釈 3]

前年10月、喜劇役者・伴淳三郎の劇団・新風ショウに参加し、同一座が舞台興行を行っていた横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。この時、演出していた岡田恵吉に母親が芸名をつけてくれるように頼み、美空ひばりと命名してもらう。横浜国際劇場の支配人だった福島通人がその才能を認め、マネージャーとなって舞台の仕事を取り、次々と“ひばり映画”を企画することに成功した。

なお、「美空ひばり」の命名者、時期については上記以外も諸説あるが、神奈川新聞に掲載された横浜国際劇場の公演広告の1948年3月8日掲載ぶんに「美空ヒバリ」、同じく1948年6月1日掲載ぶんに「美空ひばり」の記載が残っているため、遅くとも1948年3月以前であろうと推測される[6]

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1951年、松竹『あの丘越えて』で人気絶頂の鶴田浩二が扮する大学生を慕う役を演じたが、実生活でも鶴田を慕い、ひばりは鶴田を“お兄ちゃん”と呼ぶようになった。同年5月新芸術プロダクション新芸プロ)を設立。代表取締役社長が福島通人、役員にひばり、川田晴久、斎藤寅次郎がそれぞれ就任した。

喜劇の神様・齋藤寅次郎 戦前篇|佐藤利明(娯楽映画研究家・オトナの歌謡曲プロデューサー)の娯楽映画研究所

 

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