『陽気な渡り鳥』(ようきなわたりどり)は、1952年(昭和27年)1月1日公開の日本映画である。モノクロ、スタンダードサイズ、映倫番号:587。
監督 | 佐々木康 |
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脚本 | 伏見晁 |
原作 | 伏見晁 |
製作 | 小出孝 |
出演者 | 美空ひばり 斎藤達雄 淡島千景 |
音楽 | 万城目正 |
主題歌 | 「陽気な渡り鳥」(美空ひばり) |
撮影 | 厚田雄春 |
編集 | 浜村義康 |
製作会社 | 松竹 |
公開 | 1952年1月1日 |
上映時間 | 83分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
配給収入 | 8347万円[1] |
- 監督:佐々木康
- 脚本・原作:伏見晁(雑誌「ロマンス」所載)
- 製作:小出孝
- 音楽:万城目正
- 撮影:厚田雄春
- 美術:熊谷正雄
- 編集:浜村義康
- 録音:妹尾芳三郎
- 照明:高下逸男
- 現像:林龍次
- 装置:佐須角三
- 装飾:星野武
- 衣裳:斎藤耐三
- 監督助手:穂積利昌
- 撮影助手:川又昴
- 録音助手:堀義臣
- 照明助手:八鍬武
- 録音技術:金子盁
- 進行:清水富二
- 応援出演:松竹歌劇団
- 和舞振付:花柳啓之、花柳瀧三
- 洋舞振付:縣洋二
- 殺陣:堺駿二
- 奇術指導:松旭斎天洋
- 「陽気な渡り鳥」「涙のはぐれ鳥」(コロムビアレコード)
- 作詞:和田隆夫 / 作曲:万城目正 / 歌:美空ひばり
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- 岡本みどり:美空ひばり
- 岡本政治(父):斎藤達雄
- 晴江:淡島千景
- 佐久間金之助:河村黎吉
- おたか:望月優子
- 杉野みさ子:桂木洋子
- 三平:堺駿二
- 久保田修作:高橋貞二
- 山田:日守新一
- 吉澤巳之吉:安部徹
- 光代:桜むつ子
- 根本光:坂本武
- 黒田順造:小林十九二
フル動画前編
後編
1948年2月、神戸松竹劇場への出演に際して、神戸での興行に影響力を持っていた暴力団・三代目山口組組長の田岡一雄に挨拶に出向き、気に入られた[5][注釈 2]。同年5月、まだ無名の存在であった11歳の少女・ひばりの才能を見込んだ当時人気絶頂のボードビリアン川田義雄(のちの川田晴久)に横浜国際劇場公演に抜擢された。川田はひばりをそばに置いてかわいがり、また、ひばりも川田を「アニキ」と呼びよく懐いていた。ひばりは川田に大きな影響を受けており、節回しを川田節から学んでいる。専門家による声紋鑑定でも二人の節回し、歌い方が一致する結果が出ている。ひばりは「師匠といえるのは父親と川田先生だけ」と後に語っている。
川田一座では当時のスター歌手笠置シヅ子の物真似(歌真似)が非常にうまく“ベビー笠置”と言われ拍手を浴びる。純粋に「かわいい」と見る層がいた一方、「子供が大人の恋愛の歌を歌うなんて」という違和感を持つ層も存在した。詩人で作詞家のサトウハチローは当時のひばりに対し「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」と、批判的な論調の記事を書いている[注釈 3]。
前年10月、喜劇役者・伴淳三郎の劇団・新風ショウに参加し、同一座が舞台興行を行っていた横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。この時、演出していた岡田恵吉に母親が芸名をつけてくれるように頼み、美空ひばりと命名してもらう。横浜国際劇場の支配人だった福島通人がその才能を認め、マネージャーとなって舞台の仕事を取り、次々と“ひばり映画”を企画することに成功した。
なお、「美空ひばり」の命名者、時期については上記以外も諸説あるが、神奈川新聞に掲載された横浜国際劇場の公演広告の1948年3月8日掲載ぶんに「美空ヒバリ」、同じく1948年6月1日掲載ぶんに「美空ひばり」の記載が残っているため、遅くとも1948年3月以前であろうと推測される[6]。
1951年、松竹『あの丘越えて』で人気絶頂の鶴田浩二が扮する大学生を慕う役を演じたが、実生活でも鶴田を慕い、ひばりは鶴田を“お兄ちゃん”と呼ぶようになった。同年5月新芸術プロダクション(新芸プロ)を設立。代表取締役社長が福島通人、役員にひばり、川田晴久、斎藤寅次郎がそれぞれ就任した。
松竹の闇