『地獄門』(じごくもん、英題:Gate of Hell)は、1953年(昭和28年)10月31日公開の日本映画である。大映製作・配給。監督は衣笠貞之助、主演は長谷川一夫。イーストマンカラー、スタンダード、89分。
日本初のイーストマン・カラー作品で[3]、大映にとっても初の総天然色映画となる。『平家物語』や『源平盛衰記』などで語り継がれた、袈裟と盛遠の物語を題材にした菊池寛の戯曲『袈裟の良人』が原作[4]。色彩指導に洋画家の和田三造を起用して平安時代の色彩(和色)の再現に努めた。本作は第7回カンヌ国際映画祭で最高賞であるグランプリ[注 1]、第27回アカデミー賞で名誉賞と衣裳デザイン賞を受賞した[5]。
監督 | 衣笠貞之助 |
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脚本 | 衣笠貞之助 |
原作 | 菊池寛 |
製作 | 永田雅一 |
出演者 | 長谷川一夫 京マチ子 |
音楽 | 芥川也寸志 |
撮影 | 杉山公平 |
編集 | 西田重雄 |
製作会社 | 大映京都撮影所 |
配給 | 大映 |
公開 | ![]() ![]() ![]() |
上映時間 | 89分 |
製作国 | ![]() |
言語 | 日本語 |
配給収入 | 1億5176万円[2] |
- 監督・脚本:衣笠貞之助
- 製作:永田雅一
- 原作:菊池寛『袈裟の良人』
- 撮影:杉山公平
- 録音:海原幸夫
- 照明:加藤庄之丞
- 現像:東洋現像所
- 美術監督:伊藤熹朔
- 色彩指導:和田三造
- 技術監督:碧川道夫
- 音楽監督:芥川也寸志
- 演奏:関西交響楽団
- 編集:西田重雄
- 衣裳調製:松坂屋
- 助監督:三隅研次
- 盛遠:長谷川一夫
- 袈裟:京マチ子
- 渡辺渡:山形勲
- 重盛:黒川弥太郎
- 六郎:坂東好太郎
- 小源太:田崎潤(新東宝)
- 清盛:千田是也(俳優座)
- 信頼:清水将夫(民芸)
- 弥仲太:石黒達也(第一協団)
- 政仲:植村謙二郎(第一協団)
- 三郎介:清水元(第一協団)
- 真野:荒木道子(文学座)
- 刀根:南美江(文学座)
- 左和:毛利菊枝
- 康忠:香川良介
- 家貞:荒木忍
- 盛忠:澤村國太郎
- 宗盛:小柴幹治
- 兼房:春本富士夫
- 加喜助:殿山泰司
- 乙阿弥:水野浩
- 定房:南部彰三
- 胤成:南条新太郎
- 真澄:近衛敏明
- 定親:光岡龍三郎
- 国常:尾上栄五郎
- 油売り:上田寛
- 光定:原聖四郎
- 壺売り:石原須磨男
- 友行:伊達三郎
- 社僧:市川男女之助
- 物売り:葉山富之輔
- 平太:堀北幸夫
- 長信:福井隆次
- 義平次:横山文彦
- 義晴:清水明
- 成家:玉置一恵
- 資友:菊野昌代士
- 経継:藤川準
- 隆衡:岩田正
- 知盛:滝川潔
- 通実:千葉登四男
- 忠光:沖時男
- 惟顕:楠本栄一
- 牛飼い:越川一
- 下人:大国八郎
奥田久司によると、大映本社でこの映画の企画が上がった際、社長の永田雅一が大乗り気だったのに対し、社員たちは全員反対した。これに怒った永田社長は「それなら俺一人でやる!」と、強引に本作品の製作に踏み切った[7]。結果、カンヌ国際映画祭でグランプリ、アカデミー賞で衣裳デザイン賞と名誉賞を獲得した。カンヌ国際映画祭で審査委員長を務めたジャン・コクトーは、「これこそ美の到達点」と本作を絶賛した[8]。
2011年(平成23年)、東京国立近代美術館・フィルムセンターと角川映画の共同事業として、撮影助手として本作に関わった森田富士郎の監修、IMAGICAの協力の下、オリジナル・ネガより三色分解したマスター・ポジなどを素材に、当時の色彩を復元した初のデジタル・リマスター版が制作され、同年5月2日、NHK BSプレミアムで放映された[4][6]。
フル動画前編
後編
以前視聴記録
「地獄門」と聞いたら
ロダンの「地獄の門」
1953年(昭和28年)末、当時の文部省に「「フランス美術館」(仮称)設置準備協議会」(委員長は高橋誠一郎)が設置された[14]。しかし、当時の日本は財政難で、新しい国立美術館を造る余裕はなかった。文部省は1954年度予算に美術館建設費として1億5千万円を要求したが、認められたのはわずか500万円であった。
そこで、文部省としては、東京・上野の東京国立博物館内の一展示館である「表慶館」を「松方コレクションの展示場」に充てようとしたが、フランス側はこれに不快感を示した。1954年2月、当時のフランス国立博物館長(Director of Museums of France)のジョルジュ・サール(en:Georges Salles)[21]が来日し、文部大臣と会談、予算を十分に取るべきであること、上野に建設するべきである、といった意見を示した[22]。
こうした中、1954年には実業家・政治家の藤山愛一郎が中心となって「松方氏旧蔵コレクション国立美術館建設連盟」が結成され[22]、1億円を目標に寄付金集めが始まった。連盟では当時活躍していた著名美術家たちにも協力を求めた。すなわち、大口の寄付者には見返りとして、これら著名美術家の作品をプレゼントしようというものであった。
この提案に対し、美術家たちは始め難色を示していたが、ある会議の席上、洋画家の安井曾太郎が「このコレクションが戻ってきて、一番恩恵を受けるのは誰か。われわれ美術家ではないか」と発言したことがきっかけで、美術家たちは進んで協力するようになったという[23]。1954年11月には補正予算で建設費5千万円が認められた。
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この寄付金集めに協力したのが永田社長だったんじゃないかと妄想。
セイビの松方コレクション、仏政府に差し押さえられてたのを渡して貰えたのは仏政府の協力が有り「ってのことだるし、箱の建設にも色々口出ししてる。そしてカンヌでの受賞。
でなきゃ「袈裟の良人(けさのおっと)」が「地獄門」に化けた説明ができない。
貞淑な人妻 袈裟
袈裟の夫
人妻に懸想するマジ基地
やらかして反省の意を見せるのに断髪&仏門
どうやら実在の人物らしい
文覚(もんがく、生没年不詳[1][注釈 1])は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)[1]。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高雄の聖とも呼ばれる。弟子に上覚、孫弟子に明恵らがいる。
この企画、原作者も噛んでる。
1938年(昭和13年)、内閣情報部は日本文藝家協会会長の寛に作家を動員して従軍(ペン部隊)するよう命令。寛は希望者を募り、吉川英治、小島政二郎、浜本浩、北村小松、吉屋信子、久米正雄、佐藤春夫、富沢有為男、尾崎士郎、滝井孝作、長谷川伸、土師清二、甲賀三郎、関口次郎、丹羽文雄、岸田國士、湊邦三、中谷孝雄、浅野彬、中村武羅夫、佐藤惣之助総勢22人で大陸へ渡り、揚子江作戦を視察[18]。翌年は南京、徐州方面を視察。帰国した寛は「事変中は国家から頼まれたことはなんでもやる」と宣言し、「文芸銃後運動」をはじめる。これは作家たちが昼間は全国各地の陸海軍病院に慰問し、夜は講演会を開くというもので、好評を博し、北は樺太、南は台湾まで各地を回った[19]。1942年(昭和17年)、日本文学報国会が設立されると議長となり、文芸家協会を解散。
翌年、映画会社「大映」の社長に就任[20]、国策映画作りにも奮迅する[21]。
終戦後の1947年(昭和22年)、GHQから寛に公職追放の指令が下される。日本の「侵略戦争」に文藝春秋が指導的立場をとったというのが理由だった。寛は「戦争になれば国のために全力を尽くすのが国民の務めだ。いったい、僕のどこが悪いのだ。」と憤った[22]。
高潔な日本人女性のイメージ作りはカンヌで賞をもらって寄付金集めるのに必要だから。
でも実際は戦後荒廃していて、恥を忍んでの売春が現実。皮肉または自虐も、
地獄門は斬首展示場。戦後GHQによりクビになった映画屋の恨み節。そんな先達を顕彰する永田社長。長谷川一夫がマジ基地ゴリゴリ軍人風味武士、そして断髪の戦後。