『銀座カンカン娘』(ぎんざカンカンむすめ)は、東宝が配給、新東宝が製作した日本映画、またその主題歌である。映画は1949年8月16日に公開された。
監督 | 島耕二 |
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脚本 | 中田晴康、山本嘉次郎 |
製作 | 青柳信雄 |
出演者 | 高峰秀子、笠置シヅ子、灰田勝彦 |
音楽 | 服部良一 |
撮影 | 三村明 |
製作会社 | 新東宝 |
配給 | 東宝 |
公開 | 1949年8月16日 |
上映時間 | 69分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
- 秋:高峰秀子
- 春:笠置シヅ子
- 武助:灰田勝彦
- 新笑:古今亭志ん生 (5代目)
- おだい:浦辺粂子
- 白井哲夫:岸井明
- ヒヨ子:服部早苗
- 映画監督:山室耕
- 助監督:松尾文人
- 女優・山田:三村秀子
- 男優・上原:中原謙三
フル動画前編
後編
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- わが夢わが歌(歌:灰田勝彦)
- 作詞:佐伯孝夫、作曲・編曲:服部良一
プロデューサー青柳信雄 - Wikipedia
1937年(昭和12年)、34歳の時に東宝へ制作者として入社。1940年(昭和15年)に演出部へ移り、第1回作品として当時人気のあった浪曲師広沢虎造主演の『虎造の荒神山』を撮る。戦後、東宝争議により新東宝が設立されるとともに制作者として移り、プロデューサーとして活躍する。
1952年(昭和27年)に監督復帰、1954年(昭和29年)に再び東宝でメガホンを取るようになる。復帰作品は『落語長屋は花ざかり』で以降、『落語シリーズ』を手がける。シリーズものとしては他に江利チエミ主演の『サザエさん』がある。
早撮り監督といわれたが、それもプロデューサーで苦労した経験から会社の無理な要求にも応え、無理なスケジュールや予算でこなした結果といわれる。映画製作の能率向上、費用削減にも努め、映画音楽のダビング前のテープ録音の先鞭をつけた。こよなく焼き物を愛し、ロケ先で掘り出し物を見つけると後輩の黒澤明監督を電話で呼び出して二人で鑑賞したという[3]。
戦後は、大映、東横映画、新東宝、大映と移り、娯楽映画を中心に発表する。主題歌が大ヒットとなった『銀座カンカン娘』などの歌謡映画から『金色夜叉』、『滝の白糸』などのリメイク作品、『宇宙人東京に現わる』などの空想映画まで作風は多岐に及んだ。
灰田稔勝(のちの勝彦)は、明治政府の移民政策によって広島(現在の広島市南区)からハワイに移住した医師・灰田勝五郎の三男として、ハワイのホノルルで生まれた[2]。
1936年(昭和11年)に立教大学を卒業して、晴彦が所属する日本ビクターと正式に専属契約を結び、「ハワイのセレナーデ」でデビューした。1937年、ハワイ音楽にコミカルな詞をつけた「真赤な封筒」が初ヒットする。この頃より日中戦争の影響でレコード業界も戦時色が強くなったため、ハワイアンのみならず流行歌のレコーディングも行うようになる。しかし、佐々木俊一作曲の「雨の酒場」がヒットの兆しを見せていた最中、戦時下に相応しくないという理由で発売中止の処分を受けてしまう。
また、本業の歌手だけに止まらず、東宝系となるJOスタジオと俳優としても専属契約し、『たそがれの湖』でスクリーンにデビューした。しかし、同年の暮、映画「人生競馬」の撮影中に召集令状を受け取り、中国戦線に赴くこととなる。慣れない生活と気苦労から、重症の黄疸を患い、現地の野戦病院で静養したのち、内地に送還されて、九州の小倉、東京の大蔵陸軍病院で療養した。1939年に応召を解除され、同年暮れから歌手に復帰した。
1940年、当時の人気アイドルの高峰秀子と共演した千葉泰樹監督の南旺映画『秀子の応援団長』では、劇中で歌った挿入歌「燦めく星座」が高峰の歌った主題歌「青春グラウンド」を抜いて40万枚の大ヒットとなり、それまで人気があったもののマイナーな存在だった勝彦が全国的な人気スターになるきっかけとなった。
続いて出演した東宝映画『燃ゆる大空』では、飛行兵を演じる。不時着して重傷を負いながら、「故郷の空」を歌うシーンは、若い女性の紅涙を絞り、映画俳優としての人気をも確立していった。
レコードにおいては、「燦めく星座」の爆発的なヒットに続いて、「こりゃさの音頭」「お玉杓子は蛙の子」「森の小径」とヒットを連打。日米開戦後は、昭和17年「マニラの街角で」「ジャワのマンゴ売り」「新雪」「鈴懸の径」と戦時中にもかかわらず、絶大な人気を得ることとなる。
人気の上昇につれて、甘く切ない歌声は、「感傷的で好ましくない」と徐々に、内務省をはじめとする当局から睨まれ、「燦めく星座」の一番の歌詞の「男純情の愛の星の色」が陸軍の象徴である神聖な星を、流行歌の詞に軽々しく使用するとは何事かとクレームをつけられる[注釈 1]。止むなく昭和18年(1943年)に改訂版を「ジャワの夕月」のカップリングで発売するという事態になる。しかしながら、人気は衰えず、「バタビアの夜は更けて」「加藤部隊歌」「ラバウル海軍航空隊」とレコードのヒットは続き、スクリーンにおいても東宝映画『ハナ子さん』『誓いの合唱』など、活躍を続けた。
1945年、傷病兵として復員した灰田は、芸名であった勝彦の名を本名にした。人気はさらに上昇し、リバイバルヒット「新雪」「燦めく星座」をはじめ、「紫のタンゴ」「東京の屋根の下」とレコードの大ヒットが続く。昭和21年、高峰と日劇で公演した『ハワイの花』は、連日超満員の観客動員を果たし、まさに絶頂期を迎えるのであった。戦争のため、関係を引き裂かれていた地元ハワイのフローレンス君子と1948年に結婚。
スクリーンでは、東宝映画『歌え太陽』をスタートとして、『花くらべ狸御殿』『銀座カンカン娘』『狸銀座を歩く』など、主にミュージカル的な歌謡映画に数多く出演している。「立教出身者で固めよう」と自身が企画した映画『歌う野球小僧』は、上原謙、笠置シズ子らの共演により成功し、大ヒットした主題歌「野球小僧」は野球好きな灰田のテーマソングともなった。