『稲妻』(いなづま)は、1952年(昭和27年)公開の日本映画。監督は成瀬巳喜男。製作、配給は大映。モノクロ、スタンダードサイズ、映倫番号:792。
監督 | 成瀬巳喜男 |
---|---|
脚本 | 田中澄江 |
原作 | 林芙美子 |
製作総指揮 | 根岸省三 |
出演者 | 高峰秀子 三浦光子 香川京子 村田知栄子 根上淳 小沢栄 浦辺粂子 中北千枝子 |
音楽 | 斉藤一郎 |
撮影 | 峰重義 |
編集 | 鈴木東陽 |
製作会社 | 大映(東京撮影所) |
配給 | 大映 |
公開 | 1952年10月9日 |
上映時間 | 87分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
- 企画:根岸省三
- 監督:成瀬巳喜男
- 原作:林芙美子『稲妻』
- 脚本:田中澄江
- 助監督:西條文喜
- 撮影:峰重義
- 撮影助手:中尾利太郎
- 照明:安藤真之助
- 照明助手:田熊源太郎
- 録音:西井憲一
- 録音助手:清水保太郎
- 美術:仲美喜雄
- 装置:石崎喜一
- 小道具:神田一郎
- 背景:河原太郎
- 園芸:高花重孝
- 移動:大久保松雄
- 工作:田村誠
- 電飾:金谷省三
- 美術助手:岩見岩男
- 衣裳:藤木しげ
- 技髪:牧野正雄
- 結髪:篠崎卯女賀
- 音楽:斉藤一郎
- 編集:鈴木東陽
- 音響効果:花岡勝次郎
- スチール:坂東正男
- 記録:堀本日出
- 俳優事務:中山照子
- 製作主任:佐竹喜市
- 小森清子 - 高峰秀子
- 屋代光子 - 三浦光子
- 国宗つぼみ - 香川京子
- 縫子 - 村田知栄子
- 国宗周三 - 根上淳
- 綱吉 - 小沢栄
- おせい - 浦辺粂子
- 田上りつ - 中北千枝子
- 杉山とめ - 滝花久子
- 龍三 - 植村謙二郎
- 桂 - 杉丘毬子
- 嘉助 - 丸山修
- バスの運転手 - 高品格
- バスの客 - 宮嶋健一
- 伊達正
- 須藤恒子
- 新宮信子
- 竹久夢子
- 紀原耕
- 高見寛
- 佐々木正時
- 鈴木信
- 松村英代
- 日高加月枝
- 浜路真千子
フル動画前編
後編
LDで観た時の感想文
林 芙美子(はやし ふみこ、1903年〈明治36年〉12月31日 - 1951年〈昭和26年〉6月28日)は、日本の小説家[1][2][3][4]。本名フミコ[5]。身長140cm少々[6]。
幼少期からの不遇の半生を綴った自伝的小説『放浪記』(1928年)で一躍人気作家となる[1][2][5][7][8]。詩情豊かな文体で、暗い現実をリアルに描写する作風[5][9]。一貫して庶民の生活を共感をこめて描き[1][2]、流行作家として明治・大正・昭和を駆け抜けた[3]。作品に『風琴と魚の町』(1931年)、『晩菊』(1948年)、『浮雲』(1951年)などがある[1][5]。
その生涯は、「文壇に登場したころは『貧乏を売り物にする素人小説家』、その次は『たった半年間のパリ滞在を売り物にする成り上がり小説家』、そして、日中戦争から太平洋戦争にかけては『軍国主義を太鼓と笛で囃し立てた政府お抱え小説家』など、いつも批判の的になってきました。しかし、戦後の六年間はちがいました。それは、戦さに打ちのめされた、わたしたち普通の日本人の悲しみを、ただひたすらに書きつづけた六年間でした」[10]と言われるように波瀾万丈だった[6]。
- 『稲妻』(S5 B3 稲妻、B13 蝶々館、S4 青春譜、など小説4篇)、有光社(1936年)/角川文庫(1957年)
成瀬は女性映画の名手として知られており、とくに高峰秀子とのコンビによる多数の作品を手がける。また、小津映画によって神話化された原を『めし』『驟雨』で起用し、市井に生きる飾らない妻の姿を生き生きと演じさせた。
また幸田文が原作の『流れる』では高峰のほか、田中絹代、杉村春子、山田五十鈴、岡田茉莉子、中北千枝子、そしてサイレント映画女優の大女優である栗島すみ子が共演を果たしている。
他に戦前では水久保澄子・忍節子・入江たか子・岡田嘉子、戦後では若山セツ子・杉葉子・久我美子・高峰三枝子・木暮実千代・香川京子・淡島千景・新珠三千代・草笛光子・有馬稲子・団令子・水野久美・淡路恵子・司葉子・星由里子といった女優が彼の映画で輝きを放っている。
スター男優の意外な起用にも長けており、三船敏郎も『石中先生行状記』『妻の心』で黒澤映画で見せる男性的魅力とは異なる側面を見せ、三國連太郎は『夫婦』『妻』で奇妙な味わいを残した。戦前の松竹のスターである上原謙も『めし』以降の諸作で、山村聰とともに飾らない中年男性の姿を手堅く演じ続けた。晩年の『乱れる』と『乱れ雲』では、『若大将』シリーズで人気絶頂だったスター加山から繊細な演技を引き出したことも特筆に値する。
また、小林桂樹に殺人犯として主役を務めさせたり(『女の中にいる他人』)、その風貌から篤実、凡庸な性格の役回りが多い加東大介に結婚詐欺師(『女が階段を上る時』)や若い女と駆け落ちを繰り返す亭主(『女の座』)を演じさせるなど、名脇役として知られる俳優についても意外な一面を引き出している。
数は少ないが、『まごころ』『秀子の車掌さん』『なつかしの顔』『秋立ちぬ』など子どもを主人公とした情感豊かな佳作も手がけている。特に『秋立ちぬ』は、主人公に成瀬本人の幼少時代が重ねられているという意味でも、貴重な作品である。
成瀬の映画を支えていたのは東宝の映画撮影所の優秀な人材によるところも大きく、それは美術監督を務めた中古智による『成瀬巳喜男の設計』に詳しい。成瀬は美術に中古、撮影に玉井正夫、照明に石井長四郎、録音に下永尚、音楽に斎藤一郎、といった「成瀬組」と呼ばれた固定スタッフでの作業を好み、また彼らもそれぞれの持つ一流以上の技術で成瀬のもとを支えた。脚本には水木洋子が多くの作品で貢献している。
また成瀬は非常に時代性を意識した監督であり、作中にさりげなく当時の世相を盛り込むことが多かった。一例として『乱れる』での個人商店とスーパーマーケットとの価格競争や、『妻として女として』で妻や家族が「三種の神器」を欲しがるシーン、などがある。こうした設定が伏線として、話の本筋に活かされることも多い。
一方、戦後の作品では街頭シーンでチンドン屋が登場することが非常に多い。ほとんどは話に絡むことがなく(『めし』でわずかに登場人物が言及する程度である)BGMとしての意味合いも兼ねていたが、成瀬自身が特に好んで取り上げていたと言われている。
成瀬の映画で国内外を問わず最も高い評価を受けているのは『浮雲』であるが、『浮雲』はその重い雰囲気、こってりとした画調などが成瀬作品として異質であり、『浮雲』をして代表作とするべきではないという意見もある。成瀬も『浮雲』を自身の最高傑作とは見なしていなかったといわれている。
成瀬はスタッフには慕われていたが、無口な性格で付き合いをほとんど持たなかった。情趣に富んだやるせない作風のため、姓名をもじって「ヤルセナキオ」とあだ名された[2]。成瀬の下で助監督の経験をし、自身も成瀬映画のファンであった石井輝男も成瀬のことを大学教授のような物静かな人と語っている。
映画撮影は几帳面におこなわれ(ただし撮影の段取り、コンテニュイティは誰にも見せず)、撮影予定日数以内に必ず納め、また毎日の監督の作業時間は朝の9時から夕方の4時45分であり、近くのレストランの定席でコップ酒を口にすると5時の撮影所のサイレンが鳴る、という撮り方だった[3]。
斎藤 一郎(さいとう いちろう、1909年8月23日 - 1979年11月16日)は、日本の映画音楽の作曲家である[1]。彩木 暁(さいき あきら)のペンネームも用いた。
シューマンぽいモチーフを延々使い回し。正直くどい。初見の掴みはぐっと来るけど、絵と合ってるかと言われたら微妙。揺れる乙女心なんだろうけど、主人公にそこまでドロった恋愛描写なかったし。
いや、家庭の修羅場映画として視たらかなりドロドロ。ただ、そうなると今度は曲想の揺れ方がそっちじゃないって気もする。
それにしても女性週刊誌の連載とかでウケる小説って修羅場バナばっかなの?
戦後の世論形成で女性週刊誌の煽りの影響はそこそこありそうな。戦前の国防婦人会なんかもそっち方面からの流れで来たんじゃないかと邪推してみたり。まあようわからん。
ところでこの映画は1952年製作だけど、原作は1937年らしい。
セリフでは戦地に行ってた描写もあるけど、戦前を描写した映画として観るとちょっと面白い。
ただの修羅バナと一味違う。
当時の主役
パチンコ - Wikipedia 戦前からあったらしい
- 1925年頃に大阪で横型コリントゲームを改良したものがパチンコの発祥との説があるが、専門家によると[112]実際にはヨーロッパから輸入されたウォールマシンが日本で広まったものがパチンコの起源であるとされる[113]。
- 1930年、風俗営業第1号店が名古屋で許可されパチンコ店が開店。
- 1935年、秋田市内で13、14店舗が開設される。4月21日に秋田警察署が社会風教上有害なものとして営業差し止め命令を発出[114]。
- 1936年、高知でパチンコが大流行、半年で35店が開店。
- 1937年、日中戦争勃発。
- 戦時特例法によりパチンコ店の新規開店が禁止される。
- 現在のパチンコと同じ鋼球式のパチンコが登場。
- 1941年、太平洋戦争勃発。
- 1942年、戦時体制により、パチンコは不要不急産業として全面禁止。パチンコ店は閉店され、台は処分される。
- 1946年、禁止されていたパチンコが復活する。
- 1948年、
- 1949年、
- 貸玉料金が1円から2円に値上げされる。
- 丸新物産(現:ニューギン)が名古屋市で設立。
- 1950年、竹屋商会(現:竹屋)が春日井市で設立。
- 1951年、
- 1952年、
- 1953年、
- 第1期黄金時代到来。パチンコ店387,664軒にのぼる。製造メーカーは約600社。
- 循環器第1号機(高速度連射可能機:160〜180発/分の玉が自動的に発射)開発。これによりパチンコブームが加熱し、射幸心をそそるとして後の連発禁止令の要因となる。