今日はこれ。

Amazon | 十六文からす堂 千人悲願 [DVD] | 映画

十六文からす堂 千人悲願 [DVD]これじゃ大友柳太郎が主役じゃねえか。

 

十六文からす堂 千人悲願 : 作品情報 - 映画.com (eiga.com)

「黄門と弥次喜多 からす組異変」と同じく宝プロの高村將嗣の製作で、木下藤吉が山手樹一郎の原作から脚色し、「神変美女峠」の萩原章が監督し、平野好美(「黄門と弥次喜多 からす組異変」)が撮影に当っている。出演者は、「神変美女峠」の黒川弥太郎に市川春代、元大都映画の活劇スター、ハヤブサ・ヒデト、テイチクの美ち奴、ポリドールの小西潤、コロムビアの久保幸江など。

1951年製作/77分/日本
配給:新東宝
劇場公開日:1951年10月12日

 

「からす堂」と称する若い浪人の易者は薬研堀の安五郎親分の娘お柳を危難から救ったことから、お柳とその子分達が安五郎を殺した犯人を探していることを知った。

「からす堂」に心を寄せている小料理「たつみ」の女将お紺の許へ足繁く通う白覆面の武士の悪相に、「からす堂」はそれとなくその身許をさぐると、彼こそ安五郎に命じて南部藩の重宝を盗み出させた上その命を奪った犯人と知った。

白覆面はその重宝を南部藩の仇敵津軽藩に売り渡そうとしていた。「からす堂」は実は、その重宝奪還の使命を帯びた武士でここで白覆面と対持することになった。「からす堂」の放った密偵七五郎は捕われ、彼はお柳と共に槍鉄砲で包囲され、お柳はついにつれ去られた。七五郎はようやくに虎口を脱して「からす堂」に白覆面の本拠古寺を知らせたので、彼は勇躍のり込んで、お柳を救い出すと同時に、断崖上の決闘で重宝を奪いかえすことも出来た。

 

監督
脚本
木下藤吉
原作
山手樹一郎
製作
高村將嗣
撮影
平野好美
美術
鈴木正治
音楽
高橋半

 

フル動画

 

主役

黒川弥太郎 - Wikipedia

黒川 弥太郎

1933年(昭和8年)、新国劇に入る。芸名は子母沢寛原作の『弥太郎笠』より長谷川伸が名付けた。

1935年(昭和10年)、片岡千恵蔵に代わる主演スターを探していた文藝春秋鈴木氏亨によりスカウトされ日活京都撮影所に入る。以後時代劇スターとして活躍。1937年(昭和12年)には東宝に移籍しここでも主演。

その後召集され、陸軍軍曹となる。

戦後は新東宝設立の中心人物のひとりとなる。1952年(昭和27年)に大映へ、1959年(昭和34年)には東映へ移籍し、時代劇の主演・準主演で活躍。1960年代半ば(昭和40年代)からはテレビ時代劇への出演が多くなる。

 

東宝争議 - Wikipedia

1946年から1948年にかけて三次にわたり、日本の大手映画製作会社、東宝で発生した労働争議を指す。特に1948年の第3次争議は大規模なもので、最終的には撮影所の接収に警視庁予備隊および連合国軍の一員として日本の占領業務にあたっていたアメリカ軍までもが出動した。

 

連合国軍総司令部内で敗戦日本の文化戦略を担当した民間情報教育局の映画班初代班長デヴィッド・コンデは撮影所での労働組合の結成を急がせ、会社と交渉する方法等についても組合を指導した。

1945年(昭和20年)12月、東宝では、戦後の混乱と社会主義運動の高揚によって、東宝従業員組合(従組)が結成された。従組は全日本産業別労働組合会議日映演に加盟し、たびたびストライキを行った。

今井正山本薩夫など日本共産党員が戦争中から在籍していたこともあって、労働運動は一挙に盛り上がり、従業員の9割、5,600名の組合員を持つ巨大勢力となって会社と対決するようになった。

こうなった背景には、東宝は戦前から人材不足で仕事にあぶれていた学生運動家・労働運動家・社会主義者らを沢山雇入れており、これが戦後の日本共産党解禁で吹き上がった。1946年3月の賃上げ争議(第一次)で東宝従業員組合は日本共産党の指導で勝利し、同じく共産党の指導の下で同年4月結成された日本映画演劇労働組合に加盟している。

 

ストも反対だが、会社側にもつかないと表明した大河内伝次郎に賛同した長谷川一夫入江たか子山田五十鈴藤田進黒川弥太郎原節子高峰秀子山根寿子花井蘭子の十大スターが「十人の旗の会」を結成して組合を離脱。渡辺邦男監督なども組合を脱退し、方針を巡って対立した配給部門の社員は第二組合を結成して離脱した[4]

1947年(昭和22年)3月、「十人の旗の会」のメンバーと、同時に組合を脱退した百数十名の有志が中心となり新東宝を設立した[4]

東宝は健全な運営は難しくなっていたが、当時の経営陣は巨大な従組と直接対決を避けるため、従組を「第一製作部」、従組離脱組を「第二製作部」として、あえて離脱組を冷遇した。また、離脱したスターの穴を埋める為、三船敏郎久我美子若山セツ子岸旗江伊豆肇などの新人若手俳優を積極的に起用した。彼らは「東宝ニューフェイス」と呼ばれた。

 

 

デヴィッド・コンデ - Wikipedia

どう見てもソ連の工作員

カナダオンタリオ州に生まれ、1932年にアメリカに帰化した。1945年10月から1946年7月まで軍属として民間情報教育局映画演劇課長になり、日本の映画会社軍国主義的・国家主義的・封建主義的な内容の映画を製作することを禁じた[1]労働組合の結成を奨励し、戦後最大の争議といわれる東宝争議の原因を作る。1946年〜47年にロイターのジャーナリストとして極東国際軍事裁判を報じた[2]。1947年「無許可の滞日」を理由に連合国軍最高司令官総司令部からビザを否定されて、国外退去となる[3]。コンデはこれをGHQの非難による処罰と考えていた[4]

平野共余子の調査で、アメリカ共産党員であったことが明らかになっている[5]1964年[6]以降たびたび日本を訪れ、主に『世界』や『朝日ジャーナル』などの雑誌や機関誌『月刊社会党』に寄稿し、『現代朝鮮史』『CIA黒書』『アメリカの夢は終った』などの時事評論を日本語訳で出版。著作は韓国でも出版された。しかし英語の草稿はあるものの、アメリカで出版されたものはない[2]。1960年代のコンデは在日米国人記者の中では特異な存在で、アメリカの政策批判やCIAの暗躍、米国企業の内幕を暴く報道が多く見られた[7]

日本では、自分の経歴をジャーナリストと語っていたが、日本以外でジャーナリストの経験はまったくなく、アメリカではデパートセールスマンをしていた[8]。 

 

 

ここまで要約すると、アカに扇動されて騒乱状態の東宝に嫌気が差して「新東宝」を設立。俳優陣も大挙そちらに移籍した結果がこの映画。

でもこの映画の次は大映に移籍してる。そして東映と時代劇の顔になった。

 

新東宝作品目白押し

 

ネームバリューでは格上

大犮 柳太朗 - Wikipedia

1936年(昭和11年)、新興キネマ京都撮影所に招かれ、山本周五郎原作の『青空浪士』の主演で華々しく映画界にデビュー[1]。このとき、師の辰巳柳太郎から「柳太郎」の名を譲り受け芸名を「大犮柳太郎」とした。大犮の名字は「柳太郎」の名前に合うもので語呂がいいものとして新興キネマの重役が決めたものである[3]

1937年(昭和12年)、『佐賀怪猫伝』に主演、映画は大ヒットとなり、一躍スター俳優の仲間入りを果たす[1]1942年(昭和17年)、各社合併で大映京都撮影所所属となり、大映創立第1回オールスター超大作『維新の曲』に坂本龍馬の暗殺者である佐々木只三郎役で出演する。

 

1943年(昭和18年)、太平洋戦争に伴い召集を受け、満州方面を転戦する。1946年(昭和21年)、敗戦に伴い復員するが、GHQが発布した「剣戟映画禁止令」により、活躍の場を奪われ、すぐには時代劇映画スターに返り咲くことができなかった。この時期、嵐寛寿郎片岡千恵蔵大御所も、同様に時代劇での仕事の場を奪われ、現代劇に活路を求める状況であった。

1947年(昭和22年)、チャンバラ場面のない『天下の御意見番を意見する男』の主演で戦後映画界に復帰するも、同年と翌年を含めた出演作は年4本に留まり、合間を地方巡業での芝居小屋出演などで生計を立てる不遇な時期が続いた。

1950年(昭和25年)、GHQの禁止令解除に伴い、剣戟映画の世界へ戻る。同時に大犮柳太郎の「郎」を「朗」に変え “大犮柳太朗” に改名。その背景として、戦後なかなか主役の座に返り咲けず低迷し、これでは師匠(辰巳柳太郎)の名を名乗るのはおこがましいと考えたからという[3]。同年、片岡千恵蔵主演作の『にっぽんGメン』や『いれずみ判官』に出演。この時期からしばらくのあいだ東横映画での助演を多くこなした。

 

             今日の映画はこの頃

 

1953年(昭和28年)、東映京都撮影所製作、山田五十鈴共演の『加賀騒動』(佐伯清監督)は、当時新聞連載の人気小説を原作としたこともあり、その重厚な作風とも相まって大犮の演技にも注目が集まった。同年、主演した『快傑黒頭巾』が大ヒット[1]。黒頭巾役者として子供たちの人気の的となり1954年(昭和29年)からの『新諸国物語 笛吹童子』シリーズでは霧の小次郎役でさらに人気を博した[1]

 

 

横山エンタツ - Wikipedia相方が桂春団治 (3代目) - Wikipedia

エンタツ゚といえばアチャコ、らしいけどよく知らん。

よく聞く桂春団治は初代のことらしい。桂春団治 (初代) - Wikipedia

 

大好物「丹下左膳~百万両の壺」の澤村國太郎 (4代目) - Wikipediaが悪役。

 

やたら主役に粘着してたセクシー系

市川春代 - Wikipedia

市川 春代

戦後、1948年(昭和23年)からは古巣の長年過ごした撮影所を離れ、松竹京都撮影所大船撮影所、マキノ雅弘のCAC宝プロダクションなど、さまざまな撮影所での作品に出演するようになる。

『ウルトラセブン』第24話(1968年)には、フルハシ隊員(毒蝮三太夫(当時は石井伊吉))の母役

 

この映画、よくよく見たら新東宝じゃない。

宝プロダクション - Wikipedia

宝プロダクション(たからプロダクション)は、かつて京都市右京区御室地区太秦地区に存在した日本の映画製作会社である。

牧野省三の長女・牧野冨榮の夫で、第二次世界大戦前、省三去りし後の東亜キネマ等持院撮影所長(1929年 - 1931年)を皮切りに、直木三十五の協力を得た大衆文芸映画社(1931年 - 1932年)、阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画立花良介と組んだ正映マキノキネマ(1932年)、東活映画社の社長を辞任した南喜三郎と組んだ宝塚キネマ興行(1932年 - 1934年)と、短命に終わる映画会社をつくってはつぶしてきた高村正次が、戦後、高村将嗣と名乗って設立した[1][2]。高村と冨榮の二人を中心に経営された[1]

当初、戦前に日本キネマ撮影所として建設・開所されたレンタルスタジオ双ヶ丘撮影所の跡地に建てられた、立石電機(現在のオムロン)京都工場の敷地(現在は住宅地)の一角で映画製作を行った[2]新東宝と配給契約を結び、時には同社と共同製作を行い、時代劇を製作した[2]大映京都撮影所の労働組合書記長を務めたことで解雇された加藤泰を演出部に雇い、1951年(昭和26年)には『剣難女難』二部作で監督としてデビューさせた。萩原章も、戦前のマキノ・プロダクション作品のリメイク『神変美女峠』で映画監督としてデビューしている。

1952年(昭和27年)に新東宝との契約を解除、東映と配給契約を結んだ[2]。同年に加藤泰、若杉光夫ら大映京都撮影所をレッドパージされたスタッフが「劇団こうもり組」が結成されているが、のちに『月光仮面』で知られる船床定男は同劇団の演出助手を務めており、加藤が宝プロダクションで監督を始めると、船床も同社に入社することで映画界に入った[6][7]

1953年(昭和28年)には、双ヶ丘から天神川通(国道162号)に沿って南下した、天神川沿いに独自の映画スタジオ、宝プロダクション撮影所を建設・開所した[2]。経営難から同年中に自主製作を停止、東映京都撮影所とステージレンタル契約を結び、同撮影所の補完的スタジオとして機能した[2]。同年3月、京都大学法学部を卒業した唐順棋が、当時の東映京都撮影所長であり、かつてマキノ・プロダクションの總務部次長であった長橋善語(長橋達夫[9])の紹介で助監督として入社している[8]。記録に残る同社の最後の製作物は、同年8月4日に東映が配給して公開された『地雷火組』(監督並木鏡太郎)であった[4][5]。1956年(昭和31年)までには船床は東宝に移っており[10]、1957年(昭和32年)までには唐も東宝に移り、『早く帰ってコ』(監督斎藤達雄)等にはチーフ助監督に船床、サード助監督に唐とクレジットされている[11]