今日はこれ。
Amazon.co.jp: ごろつき船 DVD COS-043 : おもちゃ
ごろつき船 : 作品情報 - 映画.com (eiga.com)
大佛次郎の原作を「午前零時の出獄(1950)」の成澤昌茂と「人生選手」の菊島隆三とが脚色して「ある婦人科医の告白」の森一生が監督に当っている。「赤城から来た男」に次ぐ大河内傳次郎の主演作品で、「殺陣師段平(1950)」の月形龍之介、「東海道は兇状旅」の相馬千恵子、「鬼あざみ」の本間謙太郎、「浅草の肌」の若杉須美子改め紀英子などが助演している。
1950年製作/88分/日本
配給:大映
劇場公開日:1950年11月18日
スタッフ・キャスト
フル動画
冒頭、アイヌコスプレの大河内傳次郎 - Wikipedia
アイヌが出て来る映画を観た中ではこれが一番古い。
ただし踊りとかラストの戦闘シーンとか米国西部劇の先住民に見える。
当時ウェスタンブームだったみたいなんでたぶん。
現在、木彫りの熊は「アイヌの伝統工芸品」とのイメージが強い。だが、伝統的なアイヌ文化においては「リアルに象られた物は、魂を持って悪さをする」との考えがあり、アイヌは動植物、あるいは人物の姿をリアルな形で木彫としたり、絵画として描いたり、織物に織り込むことはしなかった。ましてカムイとされるヒグマをリアルな姿で木に彫り込むのはあり得ないことだった。しかし、続縄文時代・擦文時代の北海道の遺跡からは熊形意匠の遺物が出土されている。また、アイヌ文化においても、サパンペ(冠)の前部、あるいはイクパスイ(神に酒を捧げる神具)など儀礼にかかわる物品には、熊やシャチの姿を彫り込む場合もあった。
現在の熊の木彫りは、尾張徳川家の当主であった徳川義親が、1921年(大正10年)から1922年(大正11年)にかけての欧州旅行の際に立ち寄ったスイスのベルンでお土産として熊の木彫りを購入したことが契機である。翌1923年(大正12年)に、北海道二海郡八雲町にある旧尾張藩士たちが入植した農場「徳川農場」に送り、農場で働く農民たちや付近のアイヌに、冬期の収入源として熊の木彫りを生産するよう勧めた。その結果、1924年(大正13年)に開催された第1回八雲農村美術工芸品評会に北海道で最初に作られた熊の木彫りが出品された[11]。1927年(昭和2年)には展覧会で入賞して秩父宮雍仁親王に献上され、1928年(昭和3年)には八雲の開墾50周年を記念して熊彫展覧会が開かれる等、八雲の木彫り熊は次第に世に知られるようになり[12]、昭和初期には年間5,000体が生産されたという[13]。
パヨ界隈の人が入り込んでまとめたのではと邪推。
全国水平社(ぜんこくすいへいしゃ)は、1922年(大正11年)3月、日本で2番目に結成された全国規模の融和団体で、第二次世界大戦以前の日本の部落解放運動団体である。略称は全水(ぜんすい)もしくは単に水平社。第二次世界大戦後に発足した部落解放全国委員会および部落解放同盟の前身である[1]。
冒頭の八幡屋火災とラストの網小屋爆発の特撮が異様にリアル。
これって円谷英二 - Wikipedia?
戦時中に「ハワイ・マレー沖海戦」を撮ってたせいでGHQから公職追放されてて、そこで大映が拾って
流石にこの頃は離れてると思うけど、炎のテイストがしっかり伝承されてる?
円谷プロは更に凄い