6. 僕と彼女のために
104分 モノクロ 1942年
原題「For Me and My Gal」
監督:バスビー・バークレイ
主演:ジュディ・ガーランド、ジーン・ケリー
第一次大戦参戦間近のアメリカ。
ショービジネスでの成功を夢みてコンビを組んだ男女が恋に落ちる。
本作で映画デビューしたジーン・ケリーがジュディ・ガーランドと息の合った演技を披露。
フォー・ミー・アンド・マイ・ギャル (映画) - Wikipedia
『フォー・ミー・アンド・マイ・ギャル』(For Me and My Gal) は、1942年のアメリカ合衆国のミュージカル映画。
バスビー・バークレーが監督を務め、ジュディ・ガーランド、ジーン・ケリー、ジョージ・マーフィが主演し、マルタ・エゲルト、ベン・ブルーが助演した。ケリーにとって本作がデビュー作となった。
第一次世界大戦中、ヴォードヴィル俳優のハリー・パルマーが自身とジョー・ヘイデンについて執筆した草稿を基に、リチャード・シャーマン、フレッド・F・フィンクルホフ、シド・シルバースが脚本を執筆した。
メトロ・ゴールドウィン・メイヤーのアーサー・フリードのチームがプロデュースした。
監督 | バスビー・バークレー |
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原案 | ハワード・エメット・ロジャース |
製作 | アーサー・フリード |
出演者 | ジュディ・ガーランド ジーン・ケリー ジョージ・マーフィ |
音楽 | ロジャー・イーデンス ジョージー・ストール |
撮影 | ウィリアム・ダニエルズ |
編集 | ベン・ルイス |
製作会社 | メトロ・ゴールドウィン・メイヤー |
配給 | ロウズ Inc. |
公開 |
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上映時間 | 104分 |
製作国 | アメリカ合衆国 |
言語 | 英語 |
製作費 | $841,000[1] |
興行収入 | $4.4 million[1] |
- ジョー・ヘイデン:ジュディ・ガーランド
- ハリー・パーマー:ジーン・ケリー
- ジミー・K・メトカフ:ジョージ・マーフィ
- イヴ・ミナード(歌手):マルタ・エゲルト
- シド・シムズ(ジミーの相棒):ベン・ブルー
- ウエアリング氏(パレス・シアターの支配人):スティーブン・マクナリー
- ニューヨーク・パレスのドアマン:ロバート・ホマンズ (クレジット無し)
- リリー・ダンカン:ルシル・ノーマン (クレジット無し)
- ジム:エドワード・ペイル・シニア (クレジット無し)
- ダニー・ヘイデン(ジョーの兄弟):リチャード・クワイン (クレジット無し)
- フランス人医師:アディソン・リチャーズ (クレジット無し)
- エディ・ミルトン(劇場エージェント):キーナン・ウィン (クレジット無し)
予告
バスビー・バークレーの監督作品であるが、本作ではバークレーの特色である大規模なミュージカル・シーンがない。ボビー・コノリー振付によるヴォードヴィル・シーンが多い[2]。
さすがの米国でも戦時中はリソースが足りてない。
ミッキー・ルーニーと共に子役として活動してきたジュディ・ガーランドは19歳になり、本作で初めて成人女性を演じた[4]。オリジナルの脚本ではハリー・パーマーの役は、ガーランド演じる歌手と、ドラマチックな役柄のダンサーと、女性2人と関わるはずであった。当時MGMのアドバイザーでガーランドの演技指導者であったステラ・アドラーはプロデューサーのアーサー・フリードに、2つの役を合わせてガーランドに演じさせることを提案した。またアドラーはジーン・ケリーが主演することも提案した[5]。
ジーン・ケリーをゴリ押ししたのはこいつか。怪しい。
当時29歳であったケリーはブロードウェイ・ミュージカルの『Pal Joey』で主演し、『Best Foot Forward』を振り付けるなど舞台で活躍していた[6]。プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックはケリーと映画1本出演の契約をし、撮影終了後にケリーはブロードウェイに戻る予定であった。しかしセルズニックはケリーを配役しないまま1年が過ぎた。アーサー・フリードが本作『フォー・ミー・アンド・マイ・ギャル』にケリーを出演させてよいか尋ね、セルズニックは契約を譲渡した。MGMのフリードの上司から反対されたが、ケリーは役を得た[5][7]。当初ジョージ・マーフィがハリー・パーマー役を演じる予定であったが、ケリーが出演するにあたり、ケリーがハリー・パーマー役、マーフィがジミー・メトカフを演じることとなった。
ジーン・ケリーとジュディ・ガーランドはうまくいっていた。ガーランドはケリーがハリー役となったことを好ましく思っており、ケリーの舞台演技を映画での演技に合わせようとするのを手伝っていた。さらにガーランドは監督バスビー・バークレーと不仲であり、ケリーを自分の側に引き入れた。ケリーとガーランドは他に『踊る海賊』(1948年)、『サマー・ストック (映画)(英語版)』(1950年)で共に主演した[8]。
またドイツで30本以上の映画に出演していたハンガリーの歌手マルタ・エゲルトのアメリカ映画デビューとなった。しかしエゲルトはアメリカでは2本しか出演することはなかった[9]。
1942年4月3日から5月23日、カリフォルニア州カルヴァー・シティにあるMGMのスタジオで制作され、6月に追加シーンが撮影された。予算は$803,000と見積もられている。制作中のタイトルは『Me and My Gal』および『The Big Time』が使用されていた。
プレビュー上映の際、観客はエンディングに満足しなかった。観客はジョー(ガーランド)がハリー(ケリー)ではなくジミー(マーフィ)と結ばれることを望んでいた。ルイス・B・メイヤーは3週間で、ケリーの役柄をより誠実に、マーフィの出番を少なく制作し直すよう命じた[5]。
ボードビル一座
ジョージ・マーフィとイイ感じのジュディ・ガーランド
ジーン・ケリーにナンパされる
一座分列
新たにコンビ結成
再会
恋の行方は?
無理やりジーン・ケリー
慰問ショー
みなで戦争国債買おう!
出だしのジーン・ケリーがめっちゃ嫌な奴だった
マルタ・エゲルトって『未完成交響楽』の人だって。完全に忘れてた。