明日、我那覇チャンネルで公開鑑賞会やるってんで予習しておく。
2/10 20時〜【生配信】映画「華氏451」を一緒に観よう!【同時視聴企画】〜もし書物を読む権利がないとしたら?〜※詳細は概要欄チェック! - YouTube
監督 | フランソワ・トリュフォー |
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脚本 | フランソワ・トリュフォー ジャン=ルイ・リシャール |
製作 | ルイス・M・アレン |
出演者 | オスカー・ウェルナー ジュリー・クリスティ |
音楽 | バーナード・ハーマン |
撮影 | ニコラス・ローグ |
編集 | トム・ノーブル |
配給 | ATG |
公開 | 1966年9月16日 1967年12月20日 |
上映時間 | 112分 |
製作国 | イギリス |
言語 | 英語 |
ガイ・モンターグ(英語版) | オスカー・ウェルナー | 田中信夫 | 大滝寛 |
リンダ / クラリス | ジュリー・クリスティ | 武藤礼子 | 渡辺美佐 |
キャプテン | シリル・キューザック | 塩見竜介 | 佐々木梅治 |
ファビアン | アントン・ディフリング | 北村弘一 | 青山穣 |
ヘンリ | アレックス・スコット | 大木民夫 | 大川透 |
フル動画、日本語字幕なし
wikiは英語版の方が使える。
Fahrenheit 451 (1966 film) - Wikipedia
『華氏 451』は、フランソワ・トリュフォー監督、ジュリー・クリスティ、オスカー・ヴェルナー、シリル・キューザック主演の1966年のイギリスのディストピア・ドラマ映画です。 レイ・ブラッドベリによる1953年の同名小説を基にしたこの映画は、革命と思想を阻止するために政府が消防士を派遣してすべての文学を破壊する抑圧的な未来の管理社会を舞台にしている。 これはトリュフォーにとって初のカラー映画であり[5]、フランス語以外の映画は唯一だった。 第27回ヴェネチア国際映画祭で『華氏451度』が金獅子賞にノミネート。
トリュフォーは製作中に詳細な日記を付けており、後にフランス語と英語の両方で出版されました(英語版は『カイエ・デュ・シネマ』)。 この日記の中で、彼は『華氏451度』を自身の「最も悲しく最も困難な」映画製作体験と呼んでいるが、これは主にヴェルナーと自分自身との間の激しい対立のためである。
この映画はユニバーサル・ピクチャーズ初のヨーロッパ製作作品となった。 ジュリー・クリスティは当初、リンダとクラリスの両方ではなく、リンダ・モンタグだけにキャストされました。 クラリス役はジーン・セバーグとジェーン・フォンダにオファーされた。 熟考の末、トリュフォーは登場人物が悪役とヒーローの関係ではなく、表裏一体であるべきだと判断し、両方の役にクリスティをキャスティングしたが、このアイデアはプロデューサーのルイス・M・アレンから出たものである。
1998年のインタビューでシャルル・アズナブールは、ヴェルナーに与えられた役を演じるのにトリュフォーが最初に選んだのは自分だったと述べた。 アズナブールはジャン=ポール・ベルモンドが監督の第二候補であると述べたが、プロデューサーは二人とも英語圏の観客にとって十分な馴染みがないという理由で拒否した[11]。 ポール・ニューマン、ピーター・オトゥール、モンゴメリー・クリフトもモンターグ役に検討された。 テレンス・スタンプがキャスティングされたが、映画内でのクリスティの二役の影に隠れてしまうのを恐れて降板した[12]。 シリル・キューザックがキャスティングされる前に、ローレンス・オリヴィエ、マイケル・レッドグレーブ、スターリング・ヘイデンが船長役として検討されていた。
この映画はイギリスのパインウッド スタジオで撮影され、モノレールの外装シーンはフランスのオルレアン近くのシャトーヌフ シュル ロワールにあるフランスの SAFEGE テスト トラック (解体後) で撮影されました。 この映画では、ロンドン南部ローハンプトンのオールトン住宅団地と、バークシャー州クロウソーンのエッジカンブ公園も取り上げられました。 「ブック・ピープル」たちが選んだ本を朗読する最後のシーンは、1966 年 4 月 14 日のジュリー・クリスティの誕生日に稀に起こる予期せぬ吹雪の中、パインウッド近くのブラック・パークで撮影されました。
トリュフォーは英語をほとんど話せなかったため、製作作業はフランス語で行われたが、脚本はジャン=ルイ・リシャールと共同で執筆した。 トリュフォーは、しばしば堅苦しく不自然な英語の会話に失望を表明した。 彼はフランス語に吹き替えられたバージョンにずっと満足していました。[要出典]
映画のオープニングクレジットは活字で表示されるのではなく音声で表示されますが、これは文盲の文化における生活がどのようなものであるかについての監督のヒントである可能性があります。 トニー・ウォルトンが衣装とプロダクションデザインを担当し、シド・ケインがアートディレクションを担当した[要出典]。
1971年、ロッド・サーリングのナイトギャラリーテレビ番組のエピソードである「ディファレント・ワンズ」で、モノレールや空飛ぶ警官など、華氏451度のいくつかのシーンが使用された[14]。
『華氏451度』は、トリュフォーの友人で映画監督仲間のジャン・リュック・ゴダール監督による『アルファヴィル』というディストピア映画が公開された翌年の1966年に公開された。 トリュフォーは手紙で「『アルファヴィル』が『華氏』にいかなる害も及ぼすなどと考えてはならない」と書いている[15]。
しかし彼は間違っていた。 トリュフォーの翻案は、モンターグとクラリスが恋に落ちる描写が小説とは異なっていた。 この映画のもう一つの注目すべき点は、ジュリー・クリスティがクラリスとモンターグの妻ミルドレッドという二人の人物を演じていることであるが、映画化では名前がリンダに変更された。
ウィリアム・ストロンバーグがモスクワ交響楽団を指揮して映画音楽を再録音したCDのレイ・ブラッドベリの紹介によると、ブラッドベリはトリュフォーにバーナード・ハーマンを勧めていたという。 ブラッドベリは『引き裂かれたカーテン』のセットを訪れ、アルフレッド・ヒッチコックとハーマンに会った。 トリュフォーが彼の本についての会議のためにブラッドベリーに連絡したとき、ブラッドベリーはトリュフォーがヒッチコックについて詳細な本を書いていることを知っていたため、ハーマンを推薦した[17]。 ハーマンがトリュフォーに、監督の友人ピエール・ブーレーズやカールハインツ・シュトックハウゼンなどの現代作曲家ではなく、なぜ自分が選ばれたのかと尋ねたところ、監督は「彼らは私に20世紀の音楽をくれるけど、あなたは21世紀の音楽をくれるのよ!」と答えた。 「[18] ハーマンは、ハープ、木琴、ビブラフォン、マリンバ、グロッケンシュピールという弦楽器のみの楽譜を使用しました。 『破れたカーテン』と同様に、ハーマンはスタジオからのタイトル曲の依頼を拒否した。
著者のレイ・ブラッドベリは後のインタビューで、欠陥はあったものの、この映画には満足していると述べた。 彼は、バーナード・ハーマンのメロディアスな音楽に合わせて、本の人々が雪の田園地帯を歩き、暗記した詩や散文を暗唱する映画のクライマックスを特に気に入っていた。 彼はそれが特に心を痛め、感動的であると感じた[要出典]。しかし、リメイクの可能性をほのめかしながら、ブラッドベリは2009年のインタビューで、「前作で犯した間違いは、ジュリー・クリスティを革命家と退屈した妻の両方にキャスティングしたことだった」と語った。
ストーリーに全体主義的な含みがあるにも関わらず、この映画は1970年代初頭、スペインの独裁者フランシスコ・フランコがまだ権力を握っていた時代にスペイン国営テレビ(RTVE)で無修正放送された。
パリに生まれたトリュフォーは両親の離婚から孤独な少年時代を過ごし、幾度も親によって感化院に放り込まれるなど、親との関係で問題の多い少年だった。1946年には早くも学業を放棄し映画館に入り浸り、1947年にはシネクラブを組織し始める。15歳のとき、のちに映画評論誌『カイエ・デュ・シネマ』初代編集長(1951年 - 1958年)となる批評家アンドレ・バザンと出会い引き取られ、以降バザンが死ぬまで親子同然の生活を送る。失恋をきっかけに軍隊に志願するが、インドシナ戦線に送られることを恐れて脱走し、途中で捕まり軍刑務所にに投獄される。そのときもバザンが保護者となり軍隊から救い出した。20歳になると、彼の勧めにより映画評論を著すようになり、『カイエ・デュ・シネマ』を中心に先鋭的かつ攻撃的な映画批評を多数執筆した。特に、同誌1954年1月号に掲載された「フランス映画のある種の傾向」という文章は厳しい論調だった。
959年、キャロッス社とSEDIF(義父の会社コシノールの子会社)の共同製作による処女長編『大人は判ってくれない』を監督し、第12回カンヌ国際映画祭に出品されると大絶賛を浴び、監督賞を受賞。作品は大ヒットを記録し、トリュフォーとヌーヴェルヴァーグの名を一躍高らしめることとなった。彼自身の体験談を下敷きにして作られた同作はその後ジャン=ピエール・レオ演ずるアントワーヌ・ドワネルを主人公とする「アントワーヌ・ドワネルの冒険」としてシリーズ化され、『逃げ去る恋』(1978年)に至るまで合計5本制作された。このとき出逢った映画会社マルソー=コシノール当時のマネジャーマルセル・ベルベールは、キャロッス社の大番頭的存在となり、またトリュフォー作品にカメオ出演し続けることになる。
ウィーンで生まれたウェルナーは幼少期祖母によって育てられ、その後18歳で舞台監督に誘われ1941年に初舞台を踏んだ。その直後に独ソ戦へ徴兵されることになったが、ウェルナーは平和主義でナチズムに反対していたため、徴兵検査でわざとひっかかり戦線に行くことを免れ雑用をやることとなった。
戦時中に女優のElisabeth Kallinaと密かに結婚し子供を授かったウェルナーは、終戦後にウィーンの森へ家族と共に移り、しばらくしてウィーンに戻り俳優業を再開した[1]。 その後は色白で端整な顔立ちと金色のサラサラ髪を擁して、1960年代のヨーロッパ映画を彩った。なかでもヌーヴェルヴァーグ到来と共にフランソワ・トリュフォー監督作品にたびたび主演し、異彩を放った。ジャンヌ・モローと共演した『突然炎のごとく』や、ジュリー・クリスティと共演した異色近未来SF劇『華氏451』が代表作となり、日本でも知られる。しかし、『華氏451』の撮影中トリュフォーとの間に確執が生じ、その結果彼の監督作品での最後の出演作となった。
これまた独仏関係
一人二役
父親が紅茶のプランテーションを経営していた[1]ため、インドのアッサム州チュークアで生まれる[2]。母親はウェールズ人の画家。
ロンドンの演劇学校(スクール・オブ・スピーチ・アンド・ドラマ)で学び、1957年にエセックスのFrinton Repertoryのメンバーとしてデビュー。ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの舞台などに出演して、1961年に映画デビュー。1965年のイギリス映画『ダーリング』でアカデミー主演女優賞を受賞し、一躍トップ・スターになる。以後、多数のハリウッド作品に出演。1980年代頃からイギリスに戻り、イギリスの作品を中心に活動している。
仏監督、独英主演、製作英会社ユニバーサルの欧州初作品とな?
独人キャストはこれをディスる第1。
これがWW2後の英仏でも起きてるということ?
この赤さはソ連ディスリっぽい
このヘッドギア、ローマ風?
このローブがローマの聖職者っぽい
ジャンヌ・ダルク?
双方向インタラクティブTV
米人の原作、それでユニバーサル
映画は中世の闇を批判しているけどそれって「文盲=愚民化政策」
個人への弾圧に対抗するには個々が牙城になること。
孤立無援ではあるけれど、この思想をパヨクだけのものにしておくのはもったいない。
誰かに任せてないで、自分がやる。
なんで華氏にした?
華氏=ファーレンハイトの中国音訳「華倫海特」
ドイツの物理学者ガブリエル・ファーレンハイトが1724年に提唱した。
1960年代まで、多くの英語圏の国で、カ氏度(およびカ氏温度)は気候・産業・医療における温度の基準となっていた。1960年代後半から1970年代にかけて、メートル法への切り換えの一環としてセルシウス度(およびセルシウス温度)の導入が政府によって行われた。しかし切り換えのための努力にもかかわらず、現在でも一部の英語圏の国では非科学分野での温度計測にカ氏度が使用されている。アイザック・アシモフは、西欧の通常の気温が0 °Fから100 °Fの範囲に収まるのに対し、セルシウス温度ではとくに異常がなくても気温がマイナスの数字になりうることを指摘している[4]。
カ氏度の支持者は、これはカ氏度が利用者にとって親しみやすいからだと主張している。地球上の居住可能地域の大部分で気温変化は0 °F (−17.8 °C) から100 °F (37.8 °C) の範囲に収まる。
- 〜20 °F (〜−6.7 °C) - 厚い霜が降りる。即座に凍え死ぬ寒さ。
- 20 °F〜 (−6.7 °C〜) - 薄い霜が降りる。
- 30 °F〜 (−1.1 °C〜) - 寒い。氷点に近い。極寒。
- 40 °F〜 (4.4 °C〜) - 寒い。厚い衣服が必要。
- 50 °F〜 (10.0 °C〜) - 涼しい。適度な厚さの衣服で十分。運動には適温。
- 60 °F〜 (15.6 °C〜) - 暖かい。薄手の衣服が必要。
- 70 °F〜 (21.1 °C〜) - 適度に暑い。夏服が必要。
- 80 °F〜 (26.7 °C〜) - 暑いが耐えられる。少なめの衣服。猛烈な暑気。
- 90 °F〜 (32.2 °C〜) - とても暑い。過熱に対する予防措置が必要。
- 100 °F〜 (37.8 °C〜) - 危険なほど暑い。生存には危険な酷暑。
またカ氏温度での人間の平熱が98.6 °F (37.0 °C) であることはよく知られていて、体温が100 °F (37.8 °C) 以上になると治療が必要とされるなど、カ氏度(およびカ氏温度)は生活感覚に直結した温度目盛であると主張している。
別の例では、カ氏度は人間の温度感覚に適合しているとも考えられる。例えば、日本産のカーエアコンの設定温度は日本仕様ではセルシウス温度で0.5 °C刻みが多い[要出典]が、同じ機種でもアメリカ仕様は1 °F刻みで小数を使わない。
1960年代に華氏から摂氏への切り替えがあったのと同じころ、エンタメが映画からテレビへと移行していった。
映画の需要が下がる中、生き残りを模索する映画業界。そんな折の不満のはけ口がこの映画?
テレビ=プロパガンダ=ナチス
テレビと映画の違いはプロパガンダじゃない。生産性と経済効率。
映画の製作コストと製作時間はテレビに敵わない。より国民の要望を吸い上げるのにテレビは必然。
国民を操作するのにマスメディアを利用しているけど、実際は視聴者が製作の方向を決めている。
自分はそんなの好きじゃないと思っても、自分以外のみんなは吉本やジャニや韓流を見たいと思ってる。
映画では文字の無い世界として描いてるけど、これは角度をつけてる朝日新聞流。
誰かが都合の悪い古典を燃やして情報操作しているといった具合に印象操作してるけど、実際のとこ世界は日々刻刻変化してる、言語も変わる。戦前の手紙を読める日本人が今どれくらいいるか。これって誰かが変えた部分は確かにあるんだろうけど、実際には利用者である国民が多過ぎない漢字を求めた結果だとしか思えない。文部省のお役人としては文盲率を向上させないといけないんでアホの子でも飲み込める字数を考慮してのこと。お陰でアホの子でも電車に乗れるし運転免許を取ってドライブできる。
むしろパヨってる知識層が古典を支配し、自由に歴史を改竄できるポジションを確保してる。
「本」はエンタメだった。宗教も。
宗教が本に進化し、劇になり映画になりテレビになりネットになりメタになり・・・
教会に行くと牧師のトークが壮大なファンタジーで超大作映画。何も無い時代だったらだけど。
本は自分でイメージを再構築しないといかんけど、知識の基準にいはなる。でも映像には負けるから必然的に淘汰されてるのだと思う。まだまだ紙の優位性はあるけど、ウェアラブル端末が進化し、AIによるテキストの映像化精度があがればどうなることか。ていうか、もう必然。だって楽だし。今のところ読書や宗教は苦行っぽいけど、ゆるキャンブームとか似てると思うんである日復権する時とかありそうだけど、でもやっぱり楽な方に流されるB荘。。