8. 戦艦ポチョムキン
68分 モノクロ・サイレント 1925年
監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン
主演:アレクサンドル・アントノーフ ウラジミール・バルスキー
帝政ロシア末期の戦艦ポチョムキンの乗組員たちによる武装蜂起から市民革命へと連なる状況を描いた傑作。
本作により監督エイゼンシュテインの名は、映画史の中に深く刻まれることになった。
『戦艦ポチョムキン』(せんかんポチョムキン、ロシア語: Броненосец «Потёмкин»ブラニノースィツ・パチョームキン、英語:Battleship Potemkin)は、1925年に制作・公開されたソビエト連邦のサイレント映画。セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の長編第2作で、「第1次ロシア革命20周年記念」として製作された。
1905年に起きた戦艦ポチョムキンの反乱を描いたもので、「オデッサの階段」と呼ばれるオデッサの市民を虐殺する場面は映画史上有名なシーンの一つであり、様々なオマージュやパロディを生んでいる(後述)。しかし、「オデッサの階段」の場面や終盤の黒海艦隊の多くの艦が反乱に同調する(実際は数隻のみ)場面など史実とは大きく異なる部分も多い。当時のソ連の映画人が提唱したモンタージュ理論を確立した作品として知られ、エイゼンシュテインが唱える「アトラクションのモンタージュ」などといった独創的なモンタージュ理論を実践しており、世界各地で大きな反響を受けるとともに、後の映画人にも多大な影響を与えた。現在に至るまで映画史的に非常に重要な作品として評価されており、『國民の創生』、『市民ケーン』とともに映画芸術に革命をもたらした画期的作品とされる。
共産主義的プロパガンダ映画のために、海外で公開される際は検閲を受け、多くの場面がカットされるなど公開に難航した。日本でも終戦から22年が経った1967年にようやく一般公開された。
監督 | セルゲイ・エイゼンシュテイン |
---|---|
脚本 | セルゲイ・エイゼンシュテイン |
原作 | ニーナ=アガジャーノ・シュトコ(ロシア語版) |
出演者 | アレクサンドル・アントノフ(ロシア語版) ウラジミール・バルスキー(ロシア語版) グレゴリー・アレクサンドロフ(ロシア語版) セルゲイ・エイゼンシュテイン |
音楽 |
|
撮影 | エドゥアルド・ティッセ |
編集 | セルゲイ・エイゼンシュテイン |
製作会社 | ゴスキノ第一工場 |
配給 | ATG |
公開 | 1925年12月24日 1967年10月4日 |
上映時間 | 75分 |
製作国 | ソビエト連邦 |
言語 | ロシア語 |
- Aleksandr Antonov as Grigory Vakulinchuk (Bolshevik sailor)
- Vladimir Barsky as Commander Golikov
- Grigori Aleksandrov as Chief Officer Giliarovsky
- I. Bobrov as Young sailor flogged while sleeping
- Mikhail Gomorov as Militant sailor
- Aleksandr Levshin as Petty Officer
- N. Poltavseva as Woman with pince-nez
- Lyrkean Makeon as the Masked Man
- Konstantin Feldman as Student agitator
- Beatrice Vitoldi as Woman with the baby carriage
フル動画 字幕付き
下士官に対するパワハラ
めしまず
軍医「こんくらいなら食っても死なんし」
食わない奴は死刑なのだ
ざけんな
叛乱だ
バトル
ポチョムキン掌握ううううう!!!
艦長と従軍司祭
墜ちた十字架
オデッサ入港
オデッサ市民が叛乱船の見物に来た
うぇーい
うぇーい
諸君!
革命バンジャーイ
一斉に逃げ惑う市民
母ちゃん撃たれた
白軍が来た
なんでうちの子撃つのよ!
構えー
てー
白軍陣地に砲撃
砲撃戦用意
黒海艦隊
こっちに照準向けてる
赤旗だー
同士よーーー
ポチョムキンは実在の事件
ポチョムキン=タヴリーチェスキー公 (戦艦) - Wikipedia
艦名は「ポチョムキン=タヴリーチェスキー公爵」にちなむ。ロシア帝国海軍では当初は艦隊装甲艦(Эскадренный броненосец)、のち戦列艦(Линейный корабль)に分類された。ロシア第一革命の時期に水兵による叛乱が起こったことで世界にその名を知られた。特に、ポチョムキンという略称で有名である[艦名 1]。
ポチョムキンの叛乱(ロシア語版)[編集]
本艦の起工と同時に実質的な乗員の編成に着手された。このために、第36海兵団が編成された。海兵団には、砲術士、機関士、水雷術士が含まれていた。1905年5月に艦が竣工した時点で乗員は731名を数え、そのうち26名が士官であった。
1905年6月14日[注 1]、艦上で水兵による武装蜂起が発生した。黒海艦隊ではかねてより武装蜂起の準備がされていたが、蜂起の計画者らは本来1905年秋に決起する計画を立てていた。しかし、ポチョムキンは突出し、計画よりずっと以前に蜂起を実行に移したのである。
6月14日、ポチョムキンはテーンドル湾の沖合い停泊地にて武装の試験を行っていた。叛乱突発の原因は、昼食のボルシチに腐った肉[注 2] が使われているのに不満を申し立てた水兵に対して艦の指揮官が懲罰を加えようとしたことであった。それに対し、水兵らはライフル銃を取り、士官らを武装解除した。
艦長と上級士官のほか、特に憎まれていた士官は水兵によって射殺された。残る士官らは逮捕された。蜂起の指導者には、パーナス・マチュシェンコ(ウクライナ語版)[注 3] が選出された。艦を掌握すると、水兵たちは艦船委員会と指導部を選出し、武装や機関、および逮捕者の管理に関する艦の体制を整えた。
蜂起には、テーンドル停泊地にてポチョムキンの射撃試験の補助をしていた第267号水雷艇の乗員も合流した。両艦艇は、革命の象徴として赤旗を掲揚した。
6月14日14時00分、ポチョムキンの乗員は革命を宣言した。同日の夕刻には両艦艇はオデッサに到着した。オデッサでは、折しもゼネストが行われていた。ポチョムキンの水兵らとオデッサの労働者たちは大規模なデモ行進と、ポチョムキンの蜂起の最初の指導者で銃殺されたグリゴリー・ヴァクレンチュクの葬儀を行った。その後、ポチョムキンは皇帝の軍と警察に対して若干の射撃を行った。
このような不徹底な、いわば単なるデモに過ぎない行動も、短期的には驚くべき効果を発揮した。しかし、6月17日になると反乱鎮圧のため政府軍艦隊が派遣されることになった。艦隊は、黒海艦隊所属の艦隊装甲艦ドヴィエナザット・アポストロフ、ゲオルギー・ポベドノーセツ、トリー・スヴャチーチェリャ、水雷巡洋艦カザールスキイ[注 4]、第255号、第258号、第272号、第273号水雷艇から編成されていた。皇帝ニコライ2世はポチョムキンの叛乱を危険なものであるとみなしており、この艦が赤旗を掲げたまま黒海を遊弋するのを許容することはできないと考えていた。そして、黒海艦隊司令官であるチュフニーン海軍中将に対して速やかに叛乱を鎮圧し、最悪の場合には叛乱艦を全乗員ごと撃沈すべしとする指令を与えた。サンクトペテルブルクにいたチュフニーンは、クリーゲル海軍中将に司令官代理として事態に対処するよう任じた。
6月18日早朝、オデッサの停泊地にあったポチョムキンでは、乗員たちが町に向けて大規模な艦隊が接近しつつあるのに気づいていた。艦隊には、5隻の装甲艦と6隻の水雷艇の姿が見えた。上級指揮官クリーゲル海軍中将の将官旗を掲げた艦隊は隊形を組んで停泊地に接近し、雷撃と砲撃をもって謀反人たちを撃滅せんとしていた。
ポチョムキンは艦隊に向かって出航した。ポチョムキンでは、自分から発砲しないことが決議された。水兵たちは、ほかの艦艇でも蜂起に賛同した動きが表れることを期待したのである。交渉のため艦隊に赴くようにとの申し出を拒絶したポチョムキンの水兵らは、今度は艦隊の指揮官をポチョムキンへ招く申し出をした。クリーゲル艦隊指揮官の乗った旗艦ロスチスラフ(Rostislav)では、「投錨せよ」という信号が上げられた。その返答として、ポチョムキンはロスチスラフの衝角の前に進み出た。しかし、最後の瞬間になって進路を変更し、ポチョムキンは装甲艦ロスチスラフと、ヴィシュネヴェーツキイ海軍少将の乗る副旗艦トリー・スヴャチーチェリャのあいだを航行した。そして、衝角を警戒しつつ、脇へと去った。ポチョムキンは将官の艦に砲門を向けつつ、艦隊のあいだを縫って航行した。
しかしながら、砲門が開かれることはなかった。艦隊の艦艇の水兵らは叛乱者たちを砲撃することを拒否した。そして、上官たちから禁じられていたにも拘らず、甲板上に出て接近するポチョムキンに「万歳!」の歓声を以って挨拶を送った。
乗員の気運を危惧したクリーゲルは、全速力で公海上へ艦隊を移動させる指令を出した。ポチョムキンのもとには、装甲艦ゲオルギー・ポベドノーセツが留まった。ゲオルギー・ポベドノーセツの乗員は、ポチョムキンの乗員と話し合った結果、自艦の士官たちを逮捕し、蜂起に合流した。
しかし、のちにゲオルギー・ポベドノーセツの水兵たちのあいだには仲間割れが生じた。そして、ポチョムキンのもとを離れ、艦を政府に引き渡した。このことが、ポチョムキンの水兵たちに重大な印象を残した。彼らのあいだに、不満が募り始めた。
ポチョムキンが艦隊との2度目の遭遇からオデッサに戻ると、町は彼らに水と食料を与えることを拒否した。長い議論の末、彼らは黒海の対岸にあるルーマニアへ出航することを決議した。6月19日、ポチョムキンは第267号水雷艇を伴ってルーマニアのコンスタンツァに到着した。しかし、ルーマニア政府はポチョムキンに必要物資を提供するのを拒んだ。革命艦は、フェオドーシヤへ引き返すことになった。
ルーマニア政府から食料、燃料、水の補給を拒否されたポチョムキンは、危機的な状況に陥った。海水をボイラーに補給した結果、ボイラーは故障した。フェオドーシヤにポチョムキンが辿り着いたのは1905年6月22日朝6時のことであった。そこではすでに皇帝の正規軍と憲兵団が待ち構えていた。上陸した水兵のグループは銃火を浴びせられた。そのため、艦は再びコンスタンツァに向けて出航した。
ポチョムキンが6月24日にコンスタンツァへ到着すると、水兵らは艦をルーマニア政府に引渡した。翌25日には艦は赤旗を降ろし、水兵らは政治亡命者として上陸した。25日正午、ルーマニアの国旗がポチョムキンに掲揚された。第267号水雷艇の乗員は艇の引渡しを望まず、港内停泊地に錨を下ろした。同日、彼らはセヴァストーポリに向けて出航した。
6月26日には、コンスタンツァへ黒海艦隊の分遣隊が到着した。翌27日、ルーマニアはロシアにポチョムキン=タヴリーチェスキー公を返還した。7月1日、艦はセヴァストーポリに到着した。
改名とセヴァストーポリの蜂起[編集]
叛乱艦の名称は嫌われるため、ポチョムキン=タヴリーチェスキー公はすぐに改名されることになった。1905年9月30日付けで、正教会の著名な聖人である聖大致命者廉施者パンテレイモンに因んでパンテレイモン[注 5][注 6](Пантелеймонパンチリェーイマン)[注 7] と改名された。この艦名は、1714年の聖パンテレイモンの祝日にロシア海軍[注 8] がハンゲの海戦にて勝利を収めたことに由来している。
しかし、ポチョムキン水兵による蜂起の伝統は艦の改名後も続いた。1905年11月に発生したセヴァストポリ蜂起(ロシア語版)において、彼らは再び蜂起側に就いたのである。11月13日、パンテレイモンは叛乱した艦船に合流した。しかし、この叛乱もまた鎮圧され、失敗に終わった。