おけさ唄えば 

  • 本作を主題歌とする「おけさ唄えば」(大映京都)が橋幸夫主演で制作され、1961年7月19日に公開された[4]。カラー・大映スコープ・83分。
  • 脚本は東宝の『社長シリーズ』でお馴染みの笠原良三。なお笠原は、雷蔵・橋主演の次回作『花の兄弟』も担当する。
  • ものがたりは、出世のため悪党の性格を身につけようとつとめる正直物の一本松の千太郎(市川雷蔵)と、生意気ざかりのチンピラやくざのおけさの半次(橋幸夫)の姉や恋人もからみ、悪評高い貸元一家相手に立ち回りを演じる娯楽時代劇。ポスターには「橋が唄えば雷蔵が斬る!」とある。
  • 本作は雷蔵と橋の初共演作、雷蔵は一回り若い少年橋を気に入り、京都の案内や、撮影期間中なにかと面倒を見て、橋の付き人に間違われたこともあるという[5]

スタッフ[編集]

  • 企画 - 奥田久司
  • 脚本 - 笠原良三
  • 監督 - 森一生
  • 撮影 - 本多省三
  • 美術 - 太田誠一
  • 照明 - 中岡源権
  • 録音 - 大谷巌
  • 音楽 - 塚原哲夫
  • 助監督 - 太田昭和
  • スチル - 藤田照夫

出演者[編集]

 

おけさ唄えば : 作品情報 - 映画.com (eiga.com)

一本松の千太郎は一風変った旅人で、出世するには悪党の性格を身につけなくてはと、血も涙もない男になりきろうと一生懸命つとめるのだが、根が正直物の好人物だけにいつも人を助けるという反対のことばかりやっていた。彼は信越の山道でおけさの半次というやくざに斬りつけられるが、半次は千太郎の気っぷに惚れてきれいに別れていった。半次と別れた千太郎は、ひょんなことで、弥彦の勝五郎という旅人と一緒になるが、彼が女であることを見破っていた。千太郎に一目惚れの勝五郎は、父親の勘治郎のところに千太郎をとめようと、盛んに勘治郎は悪党の親分であると説明するのだった。二人は坂木の藤吉の家に草鞋をぬいだが、そこで千太郎はお君という田舎娘を助けるハメになった。話しているうちにお君は半次の姉であることがわかった。翌日、千太郎は二人を残して稲荷山の勘治郎一家に草鞋をぬいだ。そこには半次も来ていた。勘次郎に逢ってみて千太郎はびっくりした。勝五郎の言ったこととは反対で、仏のような人であった。そこへお君を伴って勝五郎が帰って来た。彼は家に帰るともとのお勝として女にかえった。そんな時、黒姫の繁蔵から喧嘩状が届いた。黒姫一家は悪評高い貸元だったので悪事の修業を志す千太郎は、これも修業のためと黒姫一家に寝返ってしまった。お勝と半次はこの裏切りに火のように怒った。翌朝の喧嘩場、半次は千太郎に一騎打を申出た。ところが、当の千太郎は“極悪非道の黒姫の繁蔵を裏切りや、一本松の千太郎、悪党修業の冥利につきまさ……”と大見得をきって稲荷山一家に再び寝返ったのである。おかげで黒姫一家は総くずれとなった。勘治郎の止めるのを退け、お君の淋しそうな目を背後に感じながら千太郎は旅にでるのだった。その旅姿に半次のうたう“おけさ唄えば”の歌声がかぶさっていった。お君と半次の姉弟も佐渡へ帰った。

 

橋幸夫

 

 

雷蔵のキャラ設定が軽妙なせいもあったけど、橋幸夫の歌が親しみやすくてハマる。

 

 

 

プロデューサー 奥田久司 - Wikipedia

奥田は大映京都で多数の特撮映画を企画しており、1949年(昭和24年)の『透明人間現わる』も奥田の企画である。この企画書は当初、『透明魔』と仮題され、ちょうど東宝を公職追放されていた円谷英二が京都にいたので企画を見せ協力を乞うたところ、円谷は「これ絶対面白いから、私協力します」と約束してくれた。おかげで企画が通り、戦後円谷の本格復帰第一作映画が製作されることとなった。

伊福部昭のファンで、ほとんどの企画作品で伊福部を起用していて、「戦後、相当長いお付き合いです」と語っている。『大魔神』三部作すべて伊福部音楽だが、安田公義三隅研次森一生各担当監督とも伊福部ファンだったという。数ある伊福部作品では他に、「東北の民謡をうまく使っていただいた」として、『疵千両』(1960年、田中徳三監督)を挙げている。

当時の映画の上映スケジュールは週替わりであり、「私たちは、映画というのは一週間の勝負ということでやってきてる人間ですから、後はもうそんなに(作品に)命があるとは考えなかった」という。伊藤大輔監督からは「一週間のためにカツドウヤは命を削るんだ」と教えられたといい、このなか、「『大魔神』がこんなに命があるなんて、戸惑いを感じます」と語っている。

企画作品の題名は、「プロデューサーの身だしなみ」として邦画・洋画の題名を集めた「題名帖」というものを作り、これらを組み合わせて作った。また人名は、小説などから侍らしい名前などを書き抜いた「人名ノート」を作って考えた。『大魔神』の登場人物「小源太」や「左馬之助」などもすべて奥田が考えた。

大魔神』は『釈迦』でのスペクタクル場面の成功と、前年の『あしやからの飛行』での特撮実績及び京撮の特撮スタッフの充実、森田富士郎キャメラマンのブルーバック合成実験の成功に、「これで東宝にも負けないぞ」という自信が生まれ、京撮の特撮の力を表に出して勝負しようという思いで立てられた企画だったという。奥田のつけた企画時の題名は『大魔神現わる』だった。

この企画には大映東京撮影所での『大怪獣ガメラ』(湯浅憲明監督)のヒットも大いに影響したといい、「東京に比べれば京都は田舎、排他的な意識もあったし、東京のやつに負けてたまるかというライバル意識もあった」と語っている。「映画界で考えると、東宝の『ゴジラ』がなんじゃい、負けるかいと、そんな意識はあった」という。

『大魔神』の頃の映画制作原価は、6千万円で上がれば黒字だった。『大魔神』も『大魔神怒る』も制作費は1億円で、興行収入も1億円だった。「結局トントン、あれだけ苦労して利益なしですよ」と述懐している。3作目の『大魔神逆襲』も制作費は1億円近かったが2番館での冬休み前平日興行にされてしまい、興収も伸び悩み、「4作目の企画もあったけど、これでいっぺんに意欲が減退しちゃって、企画がポシャっちゃいましたね」と語っている。

永田雅一のワンマン体制だった大映では、京都作品でも必ず東京本社4階会議室に永田社長を筆頭に40人からのスタッフが集まって、最終決断は必ず永田が下す体制だった。『釈迦』も数年前から提出していた企画だったが、急に永田の気が変わって実現した映画だったという。永田の業績については「功罪相半ば」としているが、「功」の実績として、「60歳定年制」の導入を挙げている。他の映画会社が今も「55歳定年制」を採る中、大映だけは昭和22・3年頃にこの制度を、例によって独断で採用している。奥田も「それは偉いと思います」と語っている。奥田が企画した『大魔神』は、奥田が55歳で定年退職していれば実現していなかった。

 

おけさの半次 - 橋幸夫の姉お君 -三木裕子

妙に色っぽい。もっと観たい女優なのに他に映画で印象がまるで無い。やっぱり芸能界はゴリ押しする後ろ盾があるかないか。

 

 

お勝 - 水谷良重が男装で出る。これって雷蔵が女形をやってた逆?

稲荷山の勘次郎 - 二代目中村鴈治郎の宴会芸パートはリピート必至。