というのはよくある話だと思う。

分かってもらいたいと思うのと同じくらいありそうな気もする。

 

「あなたになんかわかるわけない」

 

というのもあるかもしれないし

 

「いやそうじゃなくて・・・」というのもあると思う。

 

そうじゃなくて…という方が結構困る。

だいたいは思い込みで相手に接していると思う。

私も自戒の意味を込めて書くけれど。

 

「こういうの好きだよね!好きだと思ったー」

「こういう人だもんね!」

 

ううぅ・・・そうじゃなくて・・・それもそんな好きじゃないし・・・

 

(笑)

 

「それは好きじゃないの!」「そういう人じゃないよ!」と

そんな強く否定するのもあまり意味がない気がする。

 

それに否定すればそれは思い込みの分だけ逆にふれるので

強い思いほどむしろ怒られたりして・・・(笑)

 

自分は相手を見たいように見ている。

そのことを時々自分にも当てはめなくてはと思う。

判断して分析して安心しようとする。

わかっていないと不安。

 

私の場合はヒーリングだすべてはひとつでつながっているんだ、

なんて言うとそれが自分の思い込みとは合わないので

全力で良かれと思って否定してくる。新興宗教みたい!大丈夫?と。

相手としては私を助けようとしてくれている、善意なのだ。

 

自分の信用しないものは全て怪しい。
経験した事ですべてを判断する。
説明する力がない自分を情けないと思うこともあるけれど。
その人はそれを必要としていない。
 
でも余白の部分を考えてみてほしい。経験してないことを。
自分が知らない事はたくさんある。
というか私は自分が知ってることなんて殆ど無いと思っている。
殆ど、というか無いに等しい。
 
 
思い込んで、決めつけで生きていくことは一見楽に見える。
わかっている中で、安全の中で生きている。
楽に見えるけど自分と価値観の合わないものや
それを受け入れるには変わらなきゃならないものを見つけると
全力で追い払わなければならない。疲れるんじゃないかな。
 
大勢でいれば安心、という気持ちにも似てるかな。
人が自分と同じ気持ちでいれば安心。
自分と同じ気持ちの人を見つけると安心。
(私だって反対意見ばかりのところにいれば疲れるし
受け入れてもらえると嬉しいけど。)
 
 
いいも悪いも判断しないで
「へー。そういうのもあるんだねー。」と流していけば
いいんじゃないかね。楽だし。自分の知らないものにも出会える。
興味があればそれを取り入れてみるのもいい。
その方が楽しいことある気もするんだけど。
まあそれも自由か。
 
でも今の世界はそれを許さない気がする。
何かを発信すれば自分の知っている事だけで全力で否定し
めちゃめちゃ叩いてみたり。
祀り上げたり落としたりとジェットコースターの感情。
なんだかそういう事に振り回されているように見える。
そういうことに人生の時間を割いてもいいのか?
 
どんな事をしていても何か言う人は一定数いる。
それは否定だけじゃなくて賛成も同じこと。
 
その人たちが正しければ私は随分後にやっぱりあの人達が正しかった、
と思うかもしれない。
 
でも逆なら?
結局は自分で選ぶしかない。間違った道も。
誰も責任なんか取らない。どれだけ強固に押してきても。
 
だからとりあえず自分がいいと思ったことをいいと思うのだ。
自分がやろうと思っていることをやるしかないのだ。
 
それで終わってしまう人間関係もあるけど。
それを受け入れられない人に受け入れてもらう必要がない。
それはそれで仕方がない。
 
 
ああ、これもみな自分の価値観なのだ。
という振出しにいつも戻る。
 
まとめると「へーそうなんだ」。でいいってこと。
ははは・・・