その昔、西洋ではトンデモ牧師が都合の悪いヤツを消したり、自己のサド性をを残虐を傍若無人楽しむ為か?魔女狩りをしていた時代に、科学者は異端でした。 
ところが今はソレが全く逆です。 誰もが科学的根拠を拠り所にしています。
しかし科学が庶民と距離があり、やや身近に感じないのは、感情が無い世界だから無機質に感じる事もあり、馴染めない方も多いのでしょう… 
でも誰もが思い付く素朴なwhy?に対して、最も的確に答えたのは科学ですから。科学は謙虚な人が築き上げた結晶なんです。 
一方、信仰のいけない所は、そのwhy?を神の世界に全てを委ねてしまう所でしょう。 
慰めてくれるのは気持ちは有り難い事もあるのですが、それが方便だったら何の意味も無い。というより為にならないから。私は結論をそこには委ねません。 
しかし信仰は胡散臭さも嘘も方便もありましたが…頼る知識や情報の無い時代は迷い易い系譜を持った人類には必要不可欠だったモノだと考えます。優しくなれるには良きガイドラインだった事は認めます。 
寧ろ現代人は信仰を蔑ろにし出してから、また粗野に戻りもしたのでしょうから。 
人間性の希薄な人間が増殖したから、思慮浅い軽薄な人間が増えて、人間自体に魅力も無くなったとも思いますよ。 
信仰の教えが遠くなったからでしょう。ただ信仰は何万年と人類のガイドラインとして常にあったもの。 
コレがいきなり無くなり、代わりに科学が来たとしても、人はやはり信仰を捨てきれないでしょう。あまりにも付き合いが長かったから。 
精神的支柱を失いつつある現代人はだから精神的には未熟なんですから。ちっとも理想的な進化なんてしてません。 
ただ信仰が卑しい目で見られ出したのは、数々の新興宗教の悪行があったからで、人間が信仰離れするのはまた更に迷い易くなる以上、良い事だとは思ってはいません。 
確かにオウムの事件は影響力があったでしょう。麻原というサイコの道具になり、道義的な観念を失えば、信仰はその瞬間に意義を失うだけです。 カルトは何故かこうなる。

そもそも信仰を必要とした経緯は紀元前どころか人類の始まりは? 
野生からエスケイプ、つまり野生から逃げた猿なんで、野生社会では負け組から始まった歴史なんですから。ホント。 

そんな野生ではやっていけない突然変異の猿の人間。
つまり人類創世とは挫折感という悲哀から始まってるんですよね。 
2500年前の釈迦は『人生は苦である』と言った様に、言葉でも傷つき易い人間という生き物は、そんな負の因子悲哀を背負ったまま進化した生き物だからと考えています。
どんなに頑張ってもヒグマや虎やライオンにはなれないのですから。  
個人的には既に情け無用の弱肉強食の世界に無情とSPEC上の限界を感じるのは既にこの時点であった様に思います。  
次第に原人になるに従い、その限界や無情を激しく感じる羽目になった事はから始まり、しかし人間は弱肉強食ばかりの世界にある種、疑問符があった様にすら思っています。  
。  
弱肉強食の世界に嫌気も差しやすいのは、元が類人猿の端くれ故。 その間も人類は無情さに嫌気がさしながらも考えた。
他に何か選択肢は無いものか?この無情ずっと続くんですか?とのwhy?やらwhat?という疑問符ばかりのジレンマ。  
しかし疑問に思える事は既に賢かった事の証明で、プラスαである思考出来るレベルの脳機能は育ちつつあったとすら考えています。  
そして答えは…ならばどうすべきなのか?   
How to どの様にして  Do it 為すべきか?  
We can change !試行錯誤を重ねた後に、ウチら出来るでwwになって来る。  


共感しやすく協力せねばならないのは弱者故…かくして言語らしきものが生まれ得る羽目になったのも、こうした運命的背景により、協力するしかなかった事が賢くならざるを得なかったのだ。と考えています。

この環世界のまま代謝繰り返したら、不足を補う為に道具を使う。そりゃ創造性ありきの生き物に成らざるを得ないのです。

迷い易さは悩む=苦しいからこそ出口を見つけようとします。つまりは規則性や方法論を生み出したりね。この連続は学習です。よって賢さに繋がります。

つまり信仰が人を支配する以前から、創造性というプラスαこそが人類を賢くして来た。この代謝なんだと考えています。

そして信仰は迷い易い人間にどうあるべきかを伝えましたが…実はその信仰ですら創造性こそが神や信仰をも生み出したと考えています。

つまり卵が先か鶏が先か?の理論に当てはめ、人類の進化を当てはめると、神が先か?人間の創造性が先か?を考えると…私は人間の創造性こそが先だと考えます。

科学は一見よく理解出来ない現象を必ず理由がある筈だ。という観点から観た神の世界に棚上げしなかった根気のある先人の正しい結論の結晶なのですから。

全てを神の世界に委ね、都合の悪い事を全て悪魔のせいにして来た人類が居た時代とは…
結局、魔女狩りの様な悲劇を生み出したり、酷い事を沢山して来た訳です。
そんな狂った牧師の根拠の曖昧な偏った主観に、そして元来人を幸福にする為にある信仰が、結局人を地獄に落とす。そんなバカげた世界に初めにツバを吐いたスピノザやガリレオの勇気に敬意を表します。

つまり科学とは…偏りなき永遠の真理であり、これは地球上ならば何処でも証明可能な真理。
素直さ正直さを持つ者が根気強く、命懸けで導いた結論なのですから…それは、それは偉大なる答えなのです。重く受け止めようと思います。

長くなってすいません。つまり創造性の起源は人類創世の時期から既に始まり、それは現代まで進化も紆余曲折を経て、その代謝は繋がっているんです。

偉大なる永遠の真理は今尚、役に立ち我々の生活の基礎となり、酷たらしい間違った創造性は結局誰も幸せになどしなかったし、結局は後の子孫が支持しないのですから。コレは人類共通に道義的な観念に反します。

支持され無いモノは残らないのですから。