お盆…毎年このお盆の時期になると多くの人が墓のある故郷に帰ってくる習慣がある。
お金と時間をかけて…故人を偲ぶお墓参り…
特ににこんな時期にもなれば、寺にも幾らか納めたり。◯万円。
意外と出費もバカにならないものだ。
こうなって来ると…子供の頃の時分は正直、手間と金がかかり過ぎる事自体に疑念が湧き出したりして来るものだ。
『本当にご先祖様は極楽浄土に行けたのだろうか?』
『そもそもお寺さんは極楽浄土を知っているのだろうか?』
『お経に効力はあるのか?』
と色々と詮索なんかもしたくもなって来る。
イヤラシイガキだった。いや未だにその名残はある。不審に思い出したりするとまた止まらないのだから。
こう思ってしまう節があるのは…私は先祖由来からの霊体験というモノが無かった様に思うからだ。いや記憶にある範疇では今のところ無い…と思う。例えば…夢をみたり…啓示を受けたり、不思議な現体験があったり…
いや…実は今、実際に生を保てている事自体がその恩恵を受けている証明だったとしたら、罰当たりな事だから、これ以上の言い過ぎは止めておこう。

行き着いた結論 】
あれは形式的な風習という側面もあるのではないだろうか?
生きている人、つまり残された家族がいつまでも悲しまずに済む為のルーティーンなんじゃないかとも思ったりもした。…持論①

ああしてけじめをつけたりして、悲しんだり省みないでウジウジしないの為にはそうならない為のケジメを意味する儀式的な行為が生きている側には必要な気もするのだ 。
釈迦も言う通り…人生は苦である。ならば悲しまない為の行動が必要になって来る訳だ。
人間には喜怒哀楽はつきもの。何につけ哀しみやら悲しみに対してはとても脆いところがある。
鬱や統失に陥り易いのも人間の宿命みたいな所はあるからな。
それだけはよくわかる。
そこにロマンという味付けは必要になって来る。『ご先祖さんは極楽浄土で生きている。』また生き返って来るもんさ…コレは悲しみにくれる残された現世に生きている我々にとっては…光にあたる。
そうやって人類というのは…悲しみを克服して生を存続して来た訳だったね。
イケねぇ、あっしが野暮でございましたww

信仰の中の眉唾は…嘘があったっいいんだよ。
だって信仰の目的やら使命は救済なんだから。
そうでしたww  そうでしたww

どこか信じ切れていないのは私だけだろうか…?
そうだ…金がかかるからそう思ってしまったのだったね…。