古代…人間の寿命がもっと短く、疫病という流行病や腹痛、風邪の類で死がもっと身近だった時代は神は身近な存在だった筈だ。
畏怖を生まれながらに持ち合わせるのは、野生ではやっていけなかった系譜だったのであり、それを想像力でリカバーして来たからこそ、負のイマジネーションも抱き易いのは必然なのかも知れない。
なんと古代は虫歯なんかで命を落とす事もあった様だから。
神を知る事により、どうにか客観という視野を獲得出来た人間は、そこから謙虚さ共和的視観や偽り無き罪の意識を獲得出来た。
すると背徳を罪と位置付ける事により、どうにかベクトルを生産的方向へ向ける事は可能になり、この代謝により我々の現代の生活に至っている訳だ。
また客観の気付きは、永遠の真理についても考える機会を獲得出来た以上、それは科学に結び付く訳である。それを助けたのも人間の謙虚さありきでしょう⁉️
そして嘘偽りなき真実を信仰が正しいと位置付けたからこそ、人間は真理に気づけたんじゃないでしょうかね⁉️
我々は客観の目覚めによりこの科学の進化の享受があった以上、神を信ずる事は正しいと考える。
そして何より人間などという生き物一人一人がこれ以上傲慢になってもロクな事がない。
傲慢なヤツなど神がつたえた信仰が最も嫌う悪態であるし、社会通念としてやはり私も嫌いだし、自分は神だなんて言うかのごとく傲慢なヤツ程薄っぺらかったのもまた事実だろう。
人類の始まりなど、野生社会でやっていけなかった系譜から始まった歴史なのだ。
人間が傲慢になっても古代の当時と変わらないのはやはり天災による甚大な被害には梨の礫であるのは言う事。未だか弱い一面は変わらずあるのだから。
神を知る事により、我々が享受している科学の進化は元は客観の延長なのであるから、私は神を信ずる事は正しいと信じる。
そして私は謙虚な美徳を信ずるアナタに1つの敬意を感じるだろう。それで良いんだよ…と。