基本人間は神、信仰を心の支柱として、何十世紀にも渡り、心の拠り所として身近な存在として生きてきた。
これを150年前迄は…と仮定する。
この頃は未だ科学も進歩してないから、情報も無けりゃ、手の打ちようも無い事ばかりで、人の死は身近だったからこそ、神や信仰にすがるしかなかった。
現実に風邪や腹痛、流行病でよく人は亡くなったというから。
それが産業革命の頃から合理主義による生産体系に変わって科学が台頭しだすと、人間は謙虚さをやや失って傲慢になって来た。
神を信じなくなった背景には、新興宗教の利を搾取する暴利な活動が宗教=いかがわしいもの。胡散臭いものに認知が変化して来てしまった。
よって現世人類は信仰よりも、利便性や合理的なもの、豊かさのみを何故か問う様になり、心の拠り所はネットやゲーム。趣味趣向という方向に分散していったのである。
信仰が信頼を失ったのもまたカルトの悪行、横行する搾取やテロ、による信頼の失墜であり、信仰はまた距離を遠く感じる存在となった。
しかし何十世紀と身近に慣れ親しんだ信仰をほんのここ数世紀の間に手離し、人間はいきなり精神的に自立出来得るモノなのだろうか?
という疑問がある。
となれば信仰の良かった作用について、今一度考え直す必要があるのだ。と言いたいのだ。
人類のルーツとは、元々は野生でやっていけなかったドロップアウト組の系譜なのは間違い無いのであるから。
神を通して人間は何を享受出来たんだっけ?
コレを考え直す必要がある。
客観を身に付け、共和的な思想を創造したり、自然を敬ったり、謙虚さを身に付けたり…
信用概念、道義的観念なども身に付けたり…

謙虚さを蔑ろにする事により、人間は愚鈍になり、怠惰、傲慢が強く表に出て来る様になって来たのだ。
気分に左右され易く、軽薄で他人との差ばかりを気にする様になって来ている。
美を競い、富を競い、運のツキまでを嘆いたり、羨んだり…こんな事ばかりになっている人が大半な様な気がしている。周りに振り回されているのだ。

人間自体が人間のあり様にウンザリする様な世界を…神は仮に居たとすれば…果たしてお許しになるだろうか?
こんな犬も食わない醜態ばかりを晒す社会を存続させようなどと思うだろうか?

この人間自体が人間にウンザリ…というのは、明らかに人間性という魅力の欠如を意味するものである。
自殺者年間3万人などというのは、正にその裏打ちする証拠になっていて、生き辛さというストレス社会は、完全に人間の精神性がバランスを崩しながら時代だけが進行している。
という良からぬ現象がずっと続いている。
という事に他ならないと考える。
信仰の良き作用は信じ、どうか謙虚さだけは見失わず、惰性で生きても意味が無い。コレくらいには気付いて欲しいものだ。
人間とは元来、精神性を求める生き物である。
それは脳が急激に進化した代償なのか?それは断定できないが、迷い易く、また何かにハマり易く、陥り易くも出来ている。
精神性が充分に満たされ無いと、何故かどうして病む生き物である以上、それは蔑ろにするべきでは無い。
肝心な精神性が疎かになっていては、何を粋がって、カッコなんかつけたって、何の意味も無いのだから。