最近オウムの麻原をはじめとした6人もの信徒の死刑執行とそれに付随するニュースが連日報道されてるが、彼ら信徒も社会の道理くらいは心得ていて、物事の良し悪しくらいは分かっていた人ばかりな筈なのだ。
今回処刑された面々は実際には科学者であったり、医師免許も持っている様なエリートがいたりで、物事の分別くらいは当たり前に理解できた人達ばかりなのだから。




しかしながら彼らは、麻原というモンスターサイコ、怪人の怪人たる残酷な豹変に気付きながらも、その後も麻原の命令に従い、戦争の中でさへ使用を禁じられているサリン、VXガスなどを使った許されざる犯罪史に残るレベルのどえらいことをやってしまったのだ。

ならば彼らを惹きつけて止まなかった、その大きな理由とは、単純に何だったんだろう?…になる訳だ。

私も数年にわたり、数種類のサイコを実際に見て知る者として、端くれながら言わせて頂きますと、ライブ感とリアリティというのが、サイコのコミュニティに共通し、絆を深める意味での原理であり、条件なのではないかと思っている。

つまり法やモラルに触れるから○○をやってはいけない。というのは理屈では分かってはいても、そんなモノより比重の高い人間根本の原理の中に、触発されやすい起動ボタンが人間には備わっている。という事だ。

そしてサイコはそれを引き出す為のイロハは心得ている。生まれながらの主観の特殊性から、原始寄りな遺伝子故に、躊躇なく、捕食者としての原理を色濃く残すからだ。

つまり生きている感覚というのは…スリル。ワクワクやドキドキ感。にあたる。麻薬の様なモノだが、実はコレが彼ら信徒を惹きつけて止まないおおきな理由になっていると思っている。

麻原は選挙の落選を機に社会に敵意を持つ様になったという。
麻原がテロの計画を練り出したのもちょうどあの頃からだった。
明らかに口調も早くなり、声を荒げる場面も選挙で落選してからだった。
あの頃から豹変し、信者を煽り、実行部隊の士気を鼓舞し出したという。
実に身勝手な言い分で、宗教的な教義を上手く利用して、ホラやデマでまくし立てる。
サイコはこんな時に上手く高揚感を引き出す為に、使命感を与え、ドラマチックに脚色するのだ。
しかしながら信仰とは、人を殺めたり、不幸にする事では無い筈だ。しかしながらこんな当たり前な事すら、置いてきぼりになってしまうというのは、現実なのだろう。
そして何より、一般の社会というのは、何故かこう退屈で閉塞的だ。残念ながらライブ感もリアリティも無く、秩序やルールの柵に縛られている感は否めない。

もしかしたら、単純にこのライブ感やリアリティというワクワク感、ドキドキ感というのは、動物がイキイキしてしまう⁉️基本的な原理であり、我々が未だ秩序の鎖に繋がれていなかった程昔の…遥か古代より前の自由を謳歌して野山を駆け回っていた頃から持つ基本的原理なのではなかろうか?とも思う訳だ。

それが現代ではどうだろう?
小学校から義務を強いられ、優を求められつつも、平均的なよいこである事を強いられ…
落第すれば、未来は無い。などという強迫観念の下にその後の生活は支配され…言うなれば受動的ストレス社会を強いられている訳だ。皆が。
実は人間社会は受動的使命という柵から、なかなか解放されていない現実があるのであるから。

生物学的にコレは果たして健康と言えるのだろうか?とすら思えた方々もさぞや多いのではないかと思った事も私にも実際あったから。

出来る事ならば、人間は能動的にポジティブ思考で生きれたならば、それは最高の贅沢と言えよう。しかし現実的にそうはいかない。

そんな義務だけを忠実に果たすが優を定説化された世の中において、ライブ感とリアリティを渇望するのは、分からんでも無い。本能だから。
イヤ、現行の社会は、ライブ感やリアリティの欠如した社会の中で、閉塞的な義務漬を寧ろ推奨している様にさへ読み取れる。
この義務の柵こそが、オウムの信徒の様なブラックなカルトへ向かわせる1つの大きな瞬発性を持った動機にはなっていないだろうか?

我々が能動的に生きたいのは、実は本能なのであるから。