人間も野生から派生した生き物。野性が色濃く邪が残っていると言えると思っています。
社会性なんていうベクトルを示しても、皆がそれに上手く順応している訳じゃないですし。 
そして神は居るのか、居ないのかは未だもって人類の謎。ハッキリはしていません。
しかしながらサイコパスは現実に存在します。 
人間から邪を巧みに引出す、邪悪は存在してしまうんですよね。  
サイコパスが人間を操り、ソレを駒にして、人間ごっこをして遊びたいのも、全てはサイコ特有の亜種感という独特の孤独があります。 
人間が同種に見れていないんですからね。 
ただ真の信仰とは不思議な事に…ソレにより、共和が身に付くと、事前にサイコを受け付けなくなる様に出来ているんです。 
信仰自体が人間の脳の進化的な外側にある部分の進化を促進させるからであり、もはやサイコパスとは主に使っている脳の部位が違うんですよね。  
そりゃ不思議な事に、いや必然的に脳の進化的度により種は別れていくでしょう。 
つまり信仰はサイコパスによる悪い感化の成れの果てまで知っていて、そうならない為の免疫的な役割を既に果たしているのではないかとすら思います。 
人間は畏怖を感じたり、依存し易い様に出来ていますから、または中毒とか…だからか神を信ずる事は良い事だと思います。 
信仰により人間は客観的な視観を獲得し、神は語らない以上、人間は自発性は必要不可欠になります。そして神が鏡の役割を担っていますから。 
そりゃ道義的観念の下、やはり熟考または思考せねばならないのです。 
私ならコチラを選びます。何故ならその神ありきを経た想像力は、共和的であり無限、または自由だから。

サイコパスは別名犯罪者脳、爬虫類脳とも揶揄されるのは、本質は下等な原理でしか生きていない事を意味しています。 
ただ事実上の旧人類である個体には、人間は併せ易いのです。原人SPECというのは、人間からしたら、過去に通って来た道だから。
進化の過程でさへ記録遺伝子の中に刻まれています。だから初めてサイコに会った人が目を奪われるのは、遺伝子が懐かしいと喜んでいるからだと考えています。
今までに感じた事の無い、親近感がわくんですよね。遺伝子レベルでの衝動。危険な瞬間です。
しかしサイコは道義的な人間性という部分が欠落しているんですよね。故に酷い事が平気で出来てしまいます。
思慮浅く軽薄な考え無しは安易にサイコパスに付きます。似たような下等なコピーになり、思考出来ない退化を示しし、救い様のない下衆の極みになり、身をもち崩すでしょう。 
そんな風にしか自分を導けないだなんて、コレはもはや悲劇でしょう。
たった一度の人生をそんな風に自棄になって、いい加減にしか考えられない人らを残念に思います。

人間とはまず神に畏敬を感じ、客観を獲得したら、理智を知るべきだと痛感します。

神を経てからの想像力の方が、共和的である以上、人類にとっても有益になるんですからね…。

神は居るのか居ないのかは、未だ人類の謎ですが、居ると想定したいと信じます。