もう東日本大震災から6年が経とうとしています。


あの頃妻は乳癌の手術を受け、3月の初めに癌の特性と今後の治療方針が家族に伝えられました。


特性はかなり悪性
進行はかなり早い(若年性)
癌の直径は56㎜
トリプルネガティブ
腋下リンパ転移(3ヶ所)
肋骨に骨転移


そうです。ステージはⅣ。
「末期癌」でした。

本人には私たち家族の意向で告げてはいませんでしたが、
「余命2年」の告知でした。


トリプルネガティブ乳癌には、その当時、他の乳癌とは違い、化学療法や放射線治療しか有効な治療法はありませんでした。

しかも本来なら幾つかの抗がん剤を試し、効く抗がん剤を使い癌の大きさを縮小させてから手術するのが一般でしたが、妻は早急に手術しなければならず、効くかどうかも全く分からない状況でした。

でも、病院の方針は(どちらの病院でもそうだと思いますが)標準治療として、抗がん剤を2種類投与した後、癌の発生した局所に放射線治療をするというものでした。


効くかどうかも分からない、しかも副作用の激しい抗がん剤の効果を、少ない可能性を信じるしか方法がない。
当時の僕たちは、何度気が狂いそうになったことでしょうか。


その抗がん剤の投与スタートを間近に控えた2011年3月11日に起こった震災。

凄まじい震災の被害は関東南部でもかなりな状況でした。

入院予定の病院の状況は?
電気が止まる?
まさか抗がん剤が出来ない?
不安しかありませんでした。


仕事場の温浴施設は辛うじて施設の損傷はありませんでしたが、毎日のように「計画停電」で仕事にも支障がでたり。

手術から1ヶ月しかたっていない妻の体調もあまり良くはなく、しかも計画停電で暖房も使えなくなる時もありました。


抗がん剤投与当日。
何とか病院は稼働していました。
しかしその病棟の壁は倒壊の恐れはないものの、亀裂がいくつも入っていました。

最初の抗がん剤はFECという薬。
点滴投与した直後、危険な状態になり、即刻中止。体質にあわない薬もあると説明されました。
身体を安定させるため、翌日に。
本人には励ましの言葉をかけていましたが、僕もなかばパニックになりそうでした。

今度はACという薬。
そちらは何とか上手く投与することができました。少しだけほっとしたのを覚えています。

震災の記憶は、同時に、妻の癌との戦いの記憶でもあります。

奇跡が奇跡を呼び、妻は「余命」を越えて6年生き続けています。
10年生存率という指標から見ると、まだ安心は出来ませんが、何とかこのまま10年が過ぎることを祈るだけです。