言葉にできない | ミトココロノココロミ

言葉にできない

なんだか色々なことがうまく言葉にならないのである。
失語症?単なる表現力不足?
それとも「言葉にならない」という言葉で逃げてるだけ?
いずれにせよ、あまりよいことだとは思わない。
書きたいことがあるのに書けない。我ながら歯がゆい。

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「祈り」について考えた。
祈りというのは別に宗教的なものではない。
極々プライベートなものだ。
みんな多かれ少なかれ何かを祈りながら日々過ごしている。
ある何かがいいようになるよう祈りながら過ごしている。
これって、すごいことだと思いませんか?

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村上春樹氏の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」読了。
すごく心に残る物語なのである。
心にひっかき傷を残す物語。
しかし、読み終わって今、無性に寂しいのである。
きっとある種のハッピーエンドと言っていいのだとは思う。
幸福って多かれ少なかれこういうものだとは思う。
いくつもの喪失の果てのささやかな幸せの物語。

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コミュニケーションってきっと、ひっかき傷の残し合いのようなものだ。
その時には、理解出来ないまま傷を残されたとしても、
ふっとした時に、その傷口がじわじわと化膿し始め、
相手の言葉や行動が、ズキズキと染みてきたりするのだ。

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言葉で表現しにくいものがある。
そのことを言い訳にしてはいけないが、
きっと物語という形式でしか表現できないものがある。
そして、それは作る方も受け取る方も、
途方も無いエネルギーと集中力を必要とするのである。
これはきっとコミュニケーションも同じことなのである。
自分の物語を相手に伝えること。
相手の物語を受け止めること。
お互いに物語を作っていくこと。

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人の行動、夢や目標、財産の価値などは、
明日以降という日がほぼ半永久的に続くことを
暗黙のうちに前提としている。
でも、もし明日、人生が、あるいは世界が終わるとしたら?
明日、人生が、世界が終わるとしても、
なお自分にとって価値を持ち続けるもの。
それこそが大事なものなのだ。

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芸術が生まれるにはある種の抑圧が必要である。

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無邪気な心と、無目的で暴力的な世界。

私がなりたいものは、言葉にしにくいのだが、しいて言えば、
『ライ麦畑でつかまえて』で、ホールデン・コールフィールドが
妹のフィビーに何になりたいのかと聞かれた時に語る
「ライ麦畑のつかまえ役(The Catcher in the Rye)」
みたいな存在なのかも知れない。

 「とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、
 そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしてるとこが
 目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたり
 には誰もいない---誰もって大人はだよ---僕のほかにはね。
 で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、
 誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえること
 なんだ---つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるか
 なんて見やしないだろう。そんな時に僕は、どっからか、さっと
 とび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。
 一日じゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役。
 そういったものに僕はなりたいんだよ。馬鹿げていることは
 知ってるよ。でも、ほんとになりたいものといったら、それしか
 ないね。馬鹿げていることは知ってるけどさ」
 (野崎孝・訳「ライ麦畑でつかまえて」(白水社)より)


果たして、この夢はホールデンの言うように
「馬鹿げている」のだろうか?
今、時代に必要なのはこの
「ライ麦畑のつかまえ役」みたいな存在なのではないのだろうか?
私も頭がおかしいのかな。