上記の記念誌に以下の小文を寄稿しました。
『あなた自身のためのレッスン』~場所と思い出~
千歳烏山は、世田谷区の中でもっとも西寄りに位置する。この地名のルーツについては、「烏の大群が生息している森」があったという説が語られているが、「烏」は、「河原の洲」を意味し、かつて烏山近辺に川が流れていたため、これが由来になったという話も伝えられている。一方「千歳」という名称は、明治の町村合併により、一時的に「神奈川県北多摩郡千歳村」となったことに基づく。
この千歳烏山に、長い歴史を持つ烏山病院がある。20世紀を代表するミステリ作家、高木彬光氏は、代表作『人形はなぜ殺される』の舞台として烏山病院を選んだ。この作品には猟奇的な連続殺人事件が描かれているが、被害者の妹の滋子は統合失調症のため、精神科に十年以上入院していた。探偵の神津恭介が訪問したとき、彼女は病室の窓の鉄格子のすき間からちらりと青ざめた顔をのぞかせ、奇妙な笑いをもらして姿を隠した。これは「空笑」であろう。
この小説が刊行された昭和30年代、日本では多くの精神病院が開設された。やがて長い時間がたち烏山病院も変貌を遂げたが、いまだに古い精神病院の雰囲気をまとっている。急性期の病院と名乗っても、専門外来を設置しても、副作用のためにひょこひょこ足で散歩する入院患者の姿は今も昔も変わりがないようだ。
この小文のタイトル『あなた自身のためのレッスン』は、当院にゆかりのある劇作家、清水邦夫氏の作品である。清水さんは「狂気」をテーマとして、『狂人なおもて往生をとぐ』などの名作を残した。タイトルの芝居では、ある市民会館の舞台に記憶を失った男女3人が逃げ込むが、彼らの家族と名乗る男女が現れる。さらに管理人夫婦とともに3人の人生を再生するレッスンが始まるが、その中で「家族」の恐ろしい事実が浮かびあがる。芝居は残酷な現実を取りもどすのではなく、虚構の中を生きていくことを促す結末となっている。この戯曲は、すぐれた治療的な教訓を示している。精神疾患の苦しみを負った人たちには、辛い事実を示すだけではなく、温かみのあるフィクションを用意することも必要なのであろう。