不幸にして、この歴史的にも類を見ない異様性・独善性・残虐性の際立つ事件の当事者になってしまった人々にとっては、現在・過去・未来の他事案にはまったく関係なく、この事件だけの仕舞い方が求められてしかるべきだと思うのである。
また「この事件を風化させてはならない」と叫ぶのなら、7人、6人を同時に執行した異例措置は正解だったのではないか。
事件の総括の議論は休みなく永遠に続けることはできないし、日本人はなかなか結論を出さないし…、だったら一つの記録としてこうした形での死刑執行が異例中の異例として過去にあった、という事実を歴史に刻めるではないか。
結論の出ない議論は歴史に残せないのだから。
死刑廃止論議もこの事件の起きるずっと前からあるもので、それは引き続きやっておればいい。ただ外国と比べてどうこう主張する輩は卑屈としか思えない。人々の処罰感情というものはその国どころか、社会それぞれの文化・宗教・死生観などに大きく左右される事柄だ。アメリカ50州のうち20州には死刑が無い。州によってまちまちなのだ。国連は日本に死刑廃止勧告をしているそうだが気にすべきでない。内政干渉だ。
さらに外国のデータを頼りに死刑を時代遅れなどという日本人もいるが、日本人が言っているとしてもある種内政干渉だし、ピントがずれた雑音だ。時代も何も関係ない。今の日本社会にとってどうなのかをピュアに追求するべきである。
一方で冤罪防止に関しては、最大限の英知で進めねばならない。
ただ、この事件の処理で残念だったのは、後継団体・アレフの活動を認めてしまったことではないだろうか。
おそらく私だけではない大多数の人々が、麻原逮捕直後から
オウムは当然無くなるものと頭っから微塵の疑いもなく思い込んでいたと思う。
そこに、宗教専門家からだったか残留信者たちの精神的受け皿として、引き続き後継団体での活動を認めるべきとする意見も出てきて検討しているという報道を聴き、びっくりした記憶がある。
その理由として、曰く、行き場を失った信者たち(特に出家信者)が、自暴自棄に陥ったり、拠り所を失って自殺したりする者が出るかもしれない…。
言わば、宗教的救済という側面での配慮が主な内容だった。
ところが、この一部信者への配慮のお陰で、表向き信者の自殺や騒動などの報道は無かったが、麻原信仰の教義を残した為に教団の異様な独善性まで厳然として残っており、各施設の近隣住民の不安は事件当時のまま継続しているのである。
あの時の当局判断で、結果的にオウムの遺伝子を持ったアレフが残り、逆に事件が風化したことでそれを知らない若者の入信者が増えて、勢いを増していることは耐え難い皮肉である。
あの時麻原を逮捕して気が緩んだのか、表面に見える無力な信者たちに目を曇らされ、オウムを宗教団体として扱ってしまったのが間違いだった。
その時点では一旦小さくなったとはいえ、コアの部分はまさに「その時」に壊滅しておかなければいけなかった暴力性や反社会性の化身、恐怖のテロ集団の「種」のままだったのだから。
やはり徹底的に解散・殲滅させるべきだった。