かつて、経済を語るということは、世界を語ることだった。失業率、物価、成長率、分配、国民所得──それらをめぐる言葉には、歴史と倫理と責任が宿っていた。だが今、経済を語る知性の多くは、「社会全体をどう回すか」ではなく、「この制度は効率的か」「この政策は合理的か」という問いに集中している。

制度は語られる。だが、制度の外側、制度が生まれる土壌、制度が壊してきたもの──それらは語られない。今日の経済知識人の多くは、制度を操作の対象として扱い、その背後にある社会構造、歴史的緊張、倫理的選択には立ち入らない。つまり、制度は語るが、世界は語らない。

このような知性のかたちは、決して無能ではない。むしろ非常に優秀だ。因果推論、データサイエンス、実験経済学、ナッジ、アルゴリズム政策評価──これらはすべて、理論と実務の橋を架け、現実に作用しうる力を持っている。しかしそれは、あくまで制度の内側の効率を最適化する知性であり、「社会全体としてどうあるべきか」を問う知性とは質を異にする。

マクロ経済学とは、技術体系であると同時に、社会の骨格を考える枠組みでもあった。ケインズは、国家が有効需要を創出すべきだと語った。加藤寛は、財政を「生活の延長」として考えた。宇沢弘文は、経済を「人間の尊厳を守るための制度」と捉えた。彼らに共通していたのは、経済を“倫理の空間”として見る眼差しであり、それゆえに、制度や数字の背後にある人間の姿を見失わなかった。

対照的に、今日の一部の経済学者や知識人たちは、制度や政策を一種の“遊び場”として扱う傾向がある。アルゴリズムを導入し、最適化し、実験して、その効果を語る。だがその実験の背後にある生活、痛み、社会的不安、分配の正義、国家の持続性といった問いは、どこかへ退いている。こうして、経済は「社会の物語」ではなく、「制度の遊戯」と化す。

知識が制度の操作に集中するという現象は、現代社会全体の構造にも由来している。自己責任、即応性、分断、情報の過剰──こうした要素が絡まり合うなかで、知識人の言葉もまた、“部分最適”を目指す小さなスキルへと矮小化されていく。マクロを語らぬ知性、それはもはや構造の痛みを引き受けない軽やかな語りであり、社会の不均衡を“予測不能”という言葉で見送る態度でもある。

だが、今こそ必要なのは、「制度をどう設計するか」だけではなく、「なぜ社会はこのように構造化され、何を失ってきたのか」を語る知性である。制度に入る前に、社会の呼吸に耳を澄ますこと。変数を操作する前に、その変数の背景にある人間の営みを見つめ直すこと。そして、個別政策の積み上げではなく、**「社会として、われわれはどこへ向かうのか」**という構造の物語を再び語り直すこと。

マクロなき知性は、無力ではない。だが、不足している。
その不足は、たしかに技術的には補える。だが、倫理的・歴史的・構造的には埋まらない。

制度を弄ぶだけの知性に未来はない。
未来を語るためには、世界の重さを引き受ける覚悟が、必要なのである。