制度が軽くなった。政策はアルゴリズムに、福祉はコストに、教育はKPIに変換され、そこに人間の営みや共同体の歴史が込められる余地は乏しい。制度を設計する者たちは、もはや制度の“内実”を語らず、それが社会全体にどのような意味をもたらすかという問いから距離を取る。

だが、かつての経済思想は、そうではなかった。経済は構造であり、歴史であり、倫理の延長だった。制度は「合理化」ではなく、「継続と変容のあいだの選択」として理解されていた。そうした世界の重さを語った者たちは、今日ますます忘れられつつある。だが今、その声にこそ耳を澄ますべきではないか。

たとえば宇沢弘文は、経済学を「人間の尊厳を守る制度の設計」と捉えた。彼にとって、交通や教育、医療といった社会的共通資本は、市場原理に委ねてはならない領域であり、そこには「効率」よりも「共同性の質」が問われるべきだった。市場は万能ではなく、人間が人間らしく生きるための最低限の基盤こそが、経済の前提条件であると彼は考えた。

加藤寛は、財政や税制といった制度領域を、生活感覚から切り離さなかった。「公平な社会」とは何かを問い続け、地方分権・自己決定・競争の中にも、倫理的限界を見出そうとした。彼にとってマクロとは、抽象的な数字ではなく、分配をめぐる実感的な政治空間であり、制度はその調整装置にすぎなかった。

より根源的には、ケインズがいる。彼が語ったのは、単なる乗数効果でも、失業率の調整でもない。経済活動を支える“信認と希望”という人間的情動のダイナミズムである。ケインズは、投資とは「動物的精神(animal spirits)」によって支えられていると述べ、マクロ経済とは制度と感情、予測と信頼がせめぎ合う舞台であることを明らかにした。

こうした思想家たちに共通するのは、「制度は常に構造の一部であり、その外部に倫理的な根拠を必要とする」という認識である。経済制度とは閉じたメカニズムではなく、開かれた社会の中で意味を持ち、負の結果をもたらすときには構造そのものを再帰的に問い直すべき対象となる。これは、制度設計者ではなく、「制度を歴史のなかで選び直す者」の態度である。

今日、制度を語ることが増えた一方で、構造を語る声は著しく減っている。その沈黙は、制度が技術と効率に還元され、政治的責任が曖昧化された結果でもある。だが、構造なき制度は脆い。見えない構造が、制度を蝕むとき、経済の不全は必ず人間の不全として現れる。

だからこそ、構造を語る知性の系譜は、今こそ思い出されねばならない。
彼らは未来を語るために、過去と対話し、制度の表層ではなく、制度が依って立つ基盤そのものを批評した。その姿勢は、今日の我々があまりに早く失ってしまったもの──世界の重さを引き受けるという態度を呼び戻す鍵となる。

マクロとは数字ではない。
それは、構造に眼を向けるという、知的かつ倫理的な選択である。
その構造の中に、自分の居場所を見出し、制度の向こうに人間の生活を見据える知性だけが、未来を構想する言葉を持つ。