ヘミングウェイと村上春樹は、読者に「語り」の快楽を与えるという点において共通している。だがその語りは、しばしば他者を遠ざけるための装置として機能する。両者の語り手は、静かで、傷ついていて、物事を深く考えているように見えるが、その語りはどこまでも内向きであり、自意識の渦に読者を引き込む。これは技巧ではあるが、同時にある種の欺瞞でもある。彼らは他者に触れたふりをして、実のところ自分自身の痛みと欲望しか見ていない。そしてその内省が過剰であるがゆえに、読者はしばしば「キモさ」を感じ取ってしまう。

とりわけヘミングウェイにおいて顕著なのは、「男らしさ」の強調とその脆さの共存である。『誰がために鐘は鳴る』では、主人公のロバートがマリアとの関係のなかで揺れ動くさまが描かれるが、その揺れは共感を呼ぶというよりも、どこか“上演されている”ような感触を残す。『武器よさらば』でも、看護師との恋愛が男の苦悩の舞台装置として機能しており、女性の存在は彼の「傷ついた英雄性」を引き立てるための補助線にすぎない。どこまでも女性に依存しながら、それを男の強さとすり替える構造には、ある種の欺瞞が漂う。

村上春樹においても、女性は語り手の成長や沈黙の“美しさ”を補強する存在としてしか現れない。『ノルウェイの森』における直子や緑、『海辺のカフカ』のさくらや佐伯さんといった女性キャラクターは、いずれもどこか現実感を欠いた「理解あるミューズ」として描かれ、語り手の孤独を正当化し、読者にそのナルシシズムを共有させる。「僕」はただ静かに語り、自分の内面の波を記述しているようでいて、その実、女性という“場”を借りて自意識を増幅させている。

その構造が最も露骨に現れているのが、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』である。村上作品を下敷きにしたこの映画においても、男性主人公は妻の不在という設定を通じて深い内省を見せる。だが、その内省の相手となる女性(ドライバー)は、あまりに寡黙で、あまりに理解がありすぎて、現実の女性像から乖離している。彼女の“喪失”や“沈黙”が、男性の語りにとって都合よく設計されている点で、ここにもまた「語りのナルシシズム」が露呈する。

だが、それでもなお、彼らの文体には抗いがたい魅力がある。言葉を鳴らす力──音に宿る文学の本質を、彼らは確かに知っていた。