『新世紀エヴァンゲリオン』は、しばしば“深い”と評されるが、その深度とは物語の厚みではなく、欲望の投影面としての広さにすぎない。人間ではなく、記号が配置されたこの作品において、綾波レイは最も強力な“共犯的記号”として機能する。彼女は自己を語らず、ただ差し出される。他者の要求に応じ、母、妹、恋人、兵器という複数の役割を無抵抗に引き受ける。彼女が“無口で無垢”であればあるほど、観る者は自由に彼女を消費できる。綾波とは、空虚を意味として見せかける、欲望の鏡像である。
その対極に位置するのがアスカである。彼女は明確な自我を持ち、怒り、反発し、他者に理解されることを拒絶する。その“主体性”こそが、彼女をこの作品の異物とする。アスカは記号になりきらない。消費されることを拒否し、むしろ記号であることを断固として否定する。だから彼女は“うざい”とされる。綾波が“癒し”として歓迎されるのに対し、アスカは“ノイズ”として排除される。それは観る者の欲望が、都合のいい他者を求める構造に過ぎないことの証左だ。
さらに言えば、カヲルの登場によってこの構造はより精緻になる。彼は無条件に肯定し、全存在を“認めてくれる”理想の他者として現れるが、そこに主体はない。彼もまた、“癒しの機能”を果たすためだけに配置された記号であり、観る者にとっても碇シンジにとっても、完璧にチューニングされた自己肯定装置にすぎない。綾波が“受け入れる女性”の記号であるならば、カヲルは“理解する男性”の記号である。そしていずれも、欲望の共犯者として観る者に寄り添う。
つまり、『エヴァンゲリオン』とは、キャラクター同士の物語ではなく、観る者の欲望と記号の共犯関係によって成立する劇場なのだ。綾波に癒され、アスカに苛立ち、カヲルに救済を求める──その一連の感情の流れそのものが、視聴体験を欲望の消費に転化する。ここにおいて人間性とは捨象され、残るのは役割と記号性だけである。
この構造に無自覚であれば、視聴者はただの“ロリコン”“マザコン”と揶揄されるだけで終わる。しかしこの装置を構造的に読み解くとき、綾波は、触れられないほどに無垢でありながら、観る者の欲望を静かに受け止める共犯的存在である。その沈黙の奥には、純粋さと腐敗が背中合わせに共存している。綾波はその純白さゆえに、観る者の幻想を引き受けすぎ、ついには“腐る”。その意味で、綾波は観る者の欲望によって蝕まれる犠牲者でもある。
アニメ史において、『エヴァ』が与えた衝撃とは、この都合のいい記号を“自我らしきもの”で包み隠した点にある。それは記号に人格を錯覚させ、自己と他者の境界を曖昧にし、観る者が“愛した”つもりになる仕掛けだ。その本質が露呈したのが、アスカの拒絶と綾波の崩壊であり、カヲルの一回性だった。
だからこそ、プルツーのように「能動的に壊す」キャラクターの方が、記号からの跳躍を孕んでいたと言える。プルツーは欲望に従属せず、自らの死に向かって走る。綾波のように“受け入れる”のではなく、“拒絶しながら突き抜ける”のだ。その瞬間、彼女は記号を越えて、主体となる。綾波にそれはなかった。
綾波とは、都合のいい他者の記号である──我々の“消費する目”こそが、彼女を人間でなくさせたのである。