3月17日(土)~3月19日(月)に、嫁さんと二人で宮城県気仙沼市に行ってきました。

目的は、友人に会うこと、街を見ること、現地の方々の話を聞くこと。
それらを通して、地震と津波の現実を少しでも知ることでした。

ちなみに、僕達は初めての被災地訪問でした。





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【後記】気仙沼への旅

◇日程

2012年3月17日(土)~3月19日(月)


◇費用

・宿泊費\7500
(一泊)
・高速バス\7500
(往路)
・新幹線+大船渡線(気仙沼→一ノ関)\13000
(復路)
・その他諸々
で一人当たり計40000円くらい。


◇高速バス(けせんライナー)

深夜に池袋を出て、翌朝、気仙沼駅に着くバス。
驚くほど座席が狭かった。嫁さんの簡易テーブルは壊れていた。
津波で良いバスがやられたのかと思ったけど、昔からこうらしい。
もう少し良いバスを被災地に回せないもんかなあ。
2月に乗ったハトバスの方が広かった事が、今思うと申し訳ない。


◇最初の衝撃

何気なく街を歩いていると、土台だけがある家を見つけた。
「ああ建築中か」なんて通り過ぎた後、おかしなことに気付く。建築中らしき家がそこら中にある。こんなに建築中な訳がない。

そして、建っている家には、1階の天井あたりの高さに砂の線らしきものがある。
さらに、1階が柱しかない家もある。1階がグシャグシャになった家もある。

不謹慎だよな。なぜか笑ってしまった。有り得ない風景だった。

でも、相当片付いた後だろう。
直後に来なかったことを早くも後悔する。

少し海の方に行くと、車道のすぐ横に船が転がっている。
リアスシャークミュージアムとやらは、1階が柱だけ残してすっぽり抜けている。

魚市場の方、つまり更に海に近づくのが怖くなり、宿泊先であるホテル観洋へ向かった。
ホテル観洋は高台にあり、普通の状態に見えた。
ロビーで震災津波関連のインタビューをやっていた。
やっぱりここは現場なんだな。


◇友人との再会

少し休み、友人の家である双葉保育園に向かった。
途中、ドブのようなヘドロのような臭いが少しすることに気付くが、後で聞いたところ夏はこれが物凄いらしい。マスクなしではいられないとの事。

そして、保育園到着。
カラフルで可愛い外観。
津波から逃げ切った友人は、なぜかだいぶ太っていた。

保育園の中で、震災当日の話を聞く。
津波到達30分前に、海沿いを車で走っていたという。急いで保育園に戻り、裏にある高台に園児達と無事避難できたとの事。
でも車で走っていた道は、津波が引いた後、車が大量につぶれていたらしい。
「すれ違った人達の顔が浮かんだ」


◇逃げ切れた理由

友人の話を聞くに、これらの理由が挙げられるような気がした。

・土地をよく知っていた。
(高台の場所を知っていた)
・海の方を見渡せる場所を通って避難した。
・避難意識が強かった。
(ここまで来ないだろう、とは思っていなかった)
・大津波警報を初めて聞き、危機感が高まった。
・園児という守るべき存在があった。


◇気仙沼市の復興計画

友人や友人の父は、今の状態には半年前になっていなければならないと言っていた。
市役所のフットワークが悪いらしい。

そして、家や会社が建ち、街が普通に戻るまでには15年はかかるだろうとのこと。


◇巨大な船

海から2km以上離れた所に、巨大な船があった。
これまた車道のすぐ横だが、さっきの船とはまるで大きさが違う。

人が多く集まっており、友人曰く
「この船は残す事にしたらしい。観光地になるだろうね。」
との事。

船の下を覗こうとして、体が震えた。見てはいけない気がした。
結局、胸が苦しくなるものは布団しかなかったが、直後は何があったんだろう。
この巨大な船に巻き込まれた人はいたんだろうか。


◇広大な更地

昔の街並を知らないのに、それでも明らかにおかしいと思えてしまう風景。
あまりに途方もないため、段々と感情がなくなり、感覚が麻痺してきている自分に気付く。


◇岩井崎

被害がひどかった地域の1つらしい。
海が凄く荒れていた。低い轟音。あの日は、これが街で聞こえたらしい。

建物はほとんど土台のみになっていたが、松の木は残っていた。人間が作ったものだけ壊れたんだな。


◇ガレキの山

膨大なガレキの量。
気仙沼市では、100年分のガレキが溜まっているらしい。
友人は
「ガレキの受け入れを拒否する気持ちは分からないでもないけど、逆の立場ならどうするのか聞きたい。
放射能が不安なら、自分で計測するのが一番いい。でないと不安は解消出来ないと思う。」
というような事を言っていた。


◇やけ焦げた建物

気仙沼では火災も発生したため、やけ焦げて何とか残っているだけの建物がいくつかあった。

広島の原爆ドームとダブって見えた。


◇南気仙沼駅

残っていたのは、ホームの一部だけ。駅舎も線路もなかった。
グシャグシャになったバスが、数台。凄まじい状態。
遠くでカモメが鳴いてる。この風景が現実なのか何なのか良く分からなくなった。

友人に
「阿佐ヶ谷駅がこうなったと思えばイメージが湧くでしょ」
と言われて、鳥肌が立った。


◇ケーウェーブ

ケーウェーブとは、体育館。かの有名なジミー大西氏が、大阪の小学生達と被災地のために書いた絵を見に行った。

子供達が書いたたくさんのパネルの上に、ジミー氏が龍のような船のような何かを載せていた。

そして、子供達が書いたパネルの中に、ひときわ明るい色使いのパネルがある。これが、双葉保育園の園児達が書いたものらしい。

ジミー氏の情熱と、子供達の自由な想像を見た気がした。


◇友人の当日の行動再現

車での移動から高台への徒歩の避難まで、当日の行動を再現してもらった。

リアリティはあるんだが、やっぱり水の動きだけはどうしてもイメージ出来ない。

でも、こう言っちゃなんだけど良い体験をさせてもらった。


◇日常の風景

衝撃的な風景を一気に見すぎて、心がいっぱいいっぱいになった。
視覚からの情報ってこんなに強いのか。

建物に明かりがついているだけの、何でもない日常の風景を見て、心を休めた。


◇復興屋台村

プレハブでの仮設店舗が集まった復興屋台村に行った。
魚屋や、飲食店が並んでいた。

マンボウの刺身とサメの心臓と気仙沼ホルモンを食べた。
友人と、他愛もない話をして笑った。


◇双葉保育園

翌朝、双葉保育園の保育風景を少し見学させてもらった。
園児達が音楽にあわせて踊る姿を見て、これは天使だと思った。
感動。

50人近くもいて、誰もひとりきりにならない事に感心し、安心した。


◇友人実家

別の友人の実家に突撃訪問。
おばあちゃんが、会った事もない僕達を快く迎え入れてくれた。

大好きな裁縫道具が津波で流されたことを、淡々と話してくれた。
でも、よく笑う人で、耳も良く、普通に友達と話してる感覚に陥る。
凄い事だよな、これ。

その後、友人の父親、母親が順番に帰ってきて、お父さんが爆笑の渦を巻き起こす。
大島にカヌーで行こうとして即、転覆した話はもうたまらなかった。
笑い疲れて3人とお別れしたが、引っかかっていたのは、お父さんの釣り道具が避難中に盗まれたということ。

宝物が、盗まれたということ。

何でも、大阪の窃盗集団が震災翌日にはもう東北入りしてたとか。
凄いですね。本当。




◇総括

この旅に行く前、ジャーナリスト吉田典史さんが書いた「震災死」という本をずっと読んでいた。
内容は、遺族の方々・検死をした医師・その他関係者へのインタビューを通して、亡くなった方々の死の真相に迫り、今後の教訓をつかみとろうとするもの。

僕は、教訓をつかみとるまでいかず、母親・奥さん・子供を亡くしたある方の言葉が、言葉を通して伝わってくる感情が、強く印象に残った。

もしかして、気仙沼に行ったらこういった遺族の方と話す機会があるかもしれない。
その時、自分は何を話せるのだろうか。

「死って何ですか?」
そんな事聞けるだろうか。



結果、気仙沼で会った人達と、「死」について話す事はなかった。
チャンスさえあればと思っていたが、チャンスはなかった。

今になって思う。

死ぬって事は、生きようとすることが出来なくなる事かもしれない。
今よりいい状況を作ろうと頑張ったり苦しんだりすることが、一切出来なくなる事かもしれない。

書いてみると当たり前の事だけど、大勢の人達が亡くなった場所で、生きようとしてる人達を見て、そう思った。



それにしても、あんな津波が来たのに、また海に出ていく人達には恐れ入る。
「もうあんなのは来ない。1000年に一度だ。」
と言って。
恐怖よりはるかに強い感情があるんだろうな。

岩井崎で海と向かい合った時、心底怖かった。逃げ出したかった。
海を、地球を、人間がどうにかしようなんてバカげてる。

来て良かった。
この恐怖を味わえたから。



吉田典史さんが言ってた。
災害に対する危機意識を、日常にもっと組み入れるべきだ、というような事を。

それをうけて、思う。

何かおかしいと感じた時、すぐに本気になれるか。
スムーズに行動出来るように、普段から準備してるか。
犠牲になった人達の事を、自然の強大な力を、忘れないようにしてるか。

紛れもなく、日常の話。



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さて、今月から、気仙沼貯金始めました。
貯まったらまた行く。何年後になるか分からないけど、行く。

物資を送る代わりに、行く。

それから、福島も行かなきゃダメだと思った。
現地の人達と面と向かって話さないと、考えから何か大事なものが抜けてしまう気がした。

お金貯めよう。