背中で見せてもらった男の生き様

担当記者冥利に尽きる思い出の数々

 

1987年5月、広島市民球場のベンチで

 

 7月31日、広島カープ元監督の阿南準郎さんの訃報が飛び込んできた。86歳だった。

 

 私がデイリースポーツの広島カープ担当記者として時、広島に赴任したのが1986年(昭和61年)のこと。チームは一時代を築いた古葉監督が去り、阿南新監督の下でスタートを切ったタイミングだった。

 

 その年、カープは巨人をゲーム差なしでかわして5度目のセ・リーグ制覇を成し遂げる。自分の長いプロ野球担当記者キャリアの中で、担当チームの優勝を経験させてもらったのはこの年だけだ。

 

 これは後年、松田元オーナーから聞いた話だが、85年限りで古葉監督が退任することが決まったとき、当時の松田恒平オーナー宅に、松田元オーナー代行、現役の看板選手だった山本浩二、衣笠祥雄、古葉監督の下で番頭役を務めていた阿南準郎コーチの5人が集められた。

 

 その場で松田オーナーから選手兼任での新監督を打診されたのは山本だった。しかし39歳だった山本は選手に専念したいということでこれを辞退する。それならば、と代わりに新監督に就くことを求められたのが阿南コーチだった。

 

「代役」、「つなぎ」…阿南新監督に課せられた役どころは誰の目にもハッキリしていた。そしてその立場を最も明確に認識し、納得していたのが本人だった。

 

 淡々とチームの指揮に全力を尽くし、優勝という結果につなげた。背筋をしゃんと伸ばしたユニホーム姿は清々しく、背中で見せてもらったその生き様は見事なものだったと今も思う。

 

 指揮を執ったのは88年までの3年間。そこで山本浩二監督にバトンを渡す。

 

 優勝した年、大阪から転勤して赤ヘル番を務めていた30代前半の担当記者が自分も含めて三人いた。阿南監督はこの3人を殊の外かわいがってくれた。本人は決して口にしなかったが、地元在住の様々なしがらみに縛られたベテラン記者の相手をするよりその方がよっぽど楽しかったのだ、とある人が心中を代弁して聞かせてくれたことがある。

 

 優勝が決まった後で、酒を飲まない阿南監督から「お前らの行きつけの店を借り切ってくれ」と三人の記者に指令が下った。広島の盛り場にある小さなスナックのママに話をつけ、7、8人の記者が集められた。

 

 その日、阿南監督は一度も席に座ることなく、カウンターの中に立ちっぱなしで記事には書けない話に大笑いしながらマスターよろしく水割りを次から次へ作ってくれた。

 

 縁あって3年前、懐かしい看板がまだかかっているのを見ておよそ35年ぶりにそのスナックを訪ねた。ママはそろそろ70代半ば。顔も名前も覚えていてくれて、席に座るなり懐かしそうな顔になった。

 

 「あの晩のこと。いまでも忘れないよ。楽しかったねえ」

 

 阿南さん、ありがとうございました。