32年前のストレスが忘れられない

現地取材で味わった四苦八苦

 

1992年バルセロナ五輪の取材記念品

のバッグ。いまも大切に使用している

 

 パリ五輪が始まった。夜更かしと寝不足の19日間がすでにスタートしている。

 

 現地と日本、 時差7時間(サマータイム)の残酷に一人の視聴者として浸かりながら、そのギャップに散々苦しめられた32年前を思い出している。

 

 デイリースポーツの記者としてバルセロナ五輪を現地で取材したのは1992年夏のこと。そのときのことはこのブログの「大谷翔平とマジック・ジョンソン」、「大谷とMJが肩を並べて…感慨のツーショット」で少し触れた。バルセロナの時差もまた、パリと同じ7時間だった。

 

 7時間の時差をもう少し具体的に説明すると、例えば日本では午前零時ごろに設定された締め切りが、現地では午後5時。ほとんどの種目の決勝は夜に実施されるため、競技の結果が出る前に翌日の朝刊用の原稿を日本に送らなければならない。

 

 昼間に予選が行われる種目であれば、その様子を盛り込んで多少の臨場感を生むことができるが、決勝一本となるとどうしようもない。

 

 実際、陸上の棒高跳びの競技を例にとると、当時絶対的存在だった鳥人セルゲイ・ブブカ(旧ソ連→ウクライナ)の跳躍が始まって間もなく締め切りがやって来た。うまく行かなかった最初の跳躍のことを書きながら、最後は他を圧倒しての金メダルの匂いを盛り込んで原稿を書いた。ところがその大会、ブブカはすべての跳躍に失敗して記録なしというまさかの結果に終わってしまったのだった。

 

 この大会、日本の金メダルは、男子柔道の古賀稔彦、吉田秀彦、競泳女子平泳ぎの岩崎恭子のわずか3個に終わった。柔道の本命ふたりはさておき、岩崎恭子はほとんどノーマークの中での金メダル獲得だっただけに、翌朝の朝刊には何の痕跡も残せていない。

 

 多少の締め切り時間の差はあっても、日本中の一般紙、スポーツ新聞が同じような状況の中で新聞を作っていた。

 

 現在のようにネットメディアが存在する時代だったら、大きく事情は変わっていたはずだが、なにしろ32年前の話。劇的なシーンを目の当たりにしながら、その時点では何も手の出しようがなく、丸々一日遅れで熱の冷めた原稿を書く。

 

 残酷な7時間の時差によって2週間蓄積していくストレスは並大抵ではなかった。

 

 時代は変わってパリ五輪。活字メディアそのものの作業環境は似たようなものだろうが、いまは情報を提供するツールとしてそれぞれの手の内にはネットがある。時差関係なし。締め切り時間なし。

 

 それは果たして現場記者にとってのストレスのはけ口になっているのか、逆に切れ目のない仕事という重圧としてのしかかっているのか。

 

 真夜中のテレビ画面の前で、そんなことを考えながらオリンピックを楽しんでいる。