曾祖父の名は間野凸渓

備中松山藩の風流人の血は

 

 3月24日は68回目の誕生日。そんなタイミングで体の中に流れる血についての話を思いついた。 

 このブログのプロフィールに書いてあるように、私は岡山県出身。もう少し細かく書くと上房郡北房町(現真庭市)という県中西部の山村で生まれ育った。

 その北房町の南側に接するのが、備中松山城や映画「男はつらいよ」シリーズの「寅次郎恋歌」(1971年)、「口笛を吹く寅次郎」(1983年)の舞台としても知られる高梁市である。

 父母の生家はともにこの高梁市にあったので、自分のルーツにとっても縁が深く、また高校時代の3年間を過ごした町でもある。

 父方のルーツを少し遡ると、ネットで調べればすぐに名前の出てくるちょっとした有名人に突き当たる。父にすれば祖父、私にとっては曾祖父。名前を間野凸渓(まの・とっけい)という江戸末期から明治にかけて活躍した日本画家だった。「花鳥図」という代表作があり、現在でも高梁市歴史美術館に行けば、それらの作品が数点展示されている。

 間野凸渓は1821年(文政4年)、現在の高梁の町中で備中松山藩士の子として生まれ、1898年(明治31年)に77歳で亡くなっている。他に遊民、来治という通称も使い、松山藩の絵師としてだけでなく、日本のあちこちを訪ねながら茶の湯、挿花の道も究めたという風流人だったようだ。

 郷土の偉人、山田方谷が1805年生まれの1877年没ということは、同じ時代に松山藩に仕えていたことになり、知らぬ仲ではなかった可能性が高い。

 と、ここまで祖先の話を書いて、はてそのDNAは自分の体のどこにどういう形で受け継がれているのだろう、と思うことがある。そういえば父の兄は間野捷魯(まの・かつろ)といって、師範学校の教師転じて、詩集を何冊か刊行した農村詩人となった。父は凸渓の通称のひとつであった「来治」という名前は受け継いでいたが、画を描く様子など一度も見たことはない。

 自分に話を戻せば、図画工作、美術は小中学校を通して一番の苦手科目。通信簿の科目別平均点を出せば、間違いなく一番低い。

 凸渓から数えれば4代下ることになる私の子供世代にも隔世遺伝の気配は認められなかった。ところが面白いもので、次々に色々な血筋が交ざった結果だろうか、5代下った孫の世代になってぽつりぽつり、びっくりするようなセンスを感じさせる絵を描く子が現れているのだ。

 そこで多少の刺激にでもなればと、2023年夏には墓参りを兼ねての帰省に孫7人を同行させ、高梁市歴史美術館で凸渓の画の実物を見せて、「これは150年ほど前にみんなのおじいちゃんが書いた画だから」と興味を持たせようとしたのだが…。