昨年、山羊料理「さかえ」を初めて訪ねたときのこと。
店内は広くはない。カウンターに7~8席、土間をはさんで背後には座敷があり、やはり7~8人は座れる。その間の通路に小さなテーブルがふたつ置いてあり、それぞれ2人ずつ。そのとき居合わせた客は8人ほどだった。
山羊汁とたまちゃんはその日は出せないとあって、山羊を食べるには刺身と焼肉しかない。
「は~い、まずは刺身食べる人」。カウンターの向こうから女将が声を掛けると、私たち3人も含めて全員が手を挙げた。
「8人だね。ちょうどそれで刺身もなくなっちゃうわ。焼肉の方はちょっと待ってね」。そう言いながらまな板の上に赤身の生肉をドサッと乗せて、包丁で切り分け始めた。
「は~い。飲み物は?」。沖縄のオリオンビール、泡盛各種。棚に並んだ一升瓶の中から好みの銘柄を指名する。目に止まったのは棚とは別に、カウンターの端に置かれた大きな甕だった。
「おばちゃん、それは?」
「これにする?これは瑞泉の古酒だよ。43度。どうやって飲む?水で薄めちゃもったいないね。ロック?はい、わかった」
甕の口から柄杓を入れると、氷を入れたコップに泡盛をどぼどぼっと注いで目の前に置いてくれた。
泡盛は独特の香りを敬遠する人もいるが、古酒になって度数が上がると逆に飲み口の癖がなくなり、水のようなさわやかさが際立つ。ただし43度。飲み過ぎは禁物。
そうするうちにカウンター越しに赤身の肉を乗せた皿が差し出されてきた。
「は~い、お刺身だよ」
生まれて初めての山羊刺しを目の前にテンションが上がる。肉は皮付きの部分と皮のない赤身の2種。脂っけは見当たらない。赤身の色合いは牛刺し、馬刺しに近いが、どちらに比べても軟らかそうに見える。当たり前ながらラム、マトンのイメージだろうか。
刺身醤油の横にはにんにくと生姜を刻んだものが別々に置かれていて、好みに合わせて使えるようになっている。
肉でにんにくのかけらを包むようにしてひと口。軟らかさは見た目どおりだが、旨味がなんともしっかりしていて深い。そして何より、山羊汁でイメージしていた独特の臭いがまったくない。これなら、山羊汁でアレルギーに陥ったあまたの人も、まったく抵抗なく口にできるばかりか、その味わいに目を丸くするに違いない。これはうまい。友人の反応も同じ。みな初めて口にした山羊刺しの虜になってしまった。
◇
そんな一年前の経験もあり、この1月のグルメ旅行では何がなんでもメンバーにその味を知ってほしかった。
計画が決まった11月ごろから、折りを見ては予約の電話を入れた。開店時間の午後5時前後なら、それほど慌ただしくもないだろうと思いながらかけるのだが、何度かけても呼び出し音が繰り返されるだけ。日を変え、時間を変え、20回以上もトライしたが電話がつながることはなかった。
困り果てて、予約なしで5時に押し掛けることにしようかと思った出発の1週間前、呼び出し音が2回もならないうちに「は~い、さかえで~す」と一度聞いたら忘れない甲高い声が響いてきた。
一体どうなっているのか。その謎は実際にお店に行って氷解した。店にいた2時間ほどの間、一体何度電話がかかってきたことか。ところがひとりっきりで店を切り盛りしている女将に、厨房を離れ、サンダルを脱いで電話のある座敷に上がる暇などまったくないのだ。
電話が鳴り始めると、厨房に立ったまま「は~い、ごめんね。いま電話に出られないからね~」と相手に届くはずもないことを言いながら手を動かしている。なるほど。20回の空振りもこのパターンだったのか。
ちなみに1月のその日も、カウンター、座敷、通路のテーブル…一席の空きもない超満員だった。