※オールスターのハーフタイムで紹介された順にと思ってたら、2番目で早速カーメロ・アンソニーだったので流石にとばします。まだ現役だし、このシリーズを全員書く頃には引退してそうなので。


Dominique Wilkins (1982-1999)

203cm 97kg SF


“ヒューマンハイライトフィルム”、そんな愛称を持つWilikinsの最も得意とするプレイはもちろんダンク。マイケル・ジョーダンと鎬を削ったスラムダンクコンテストの映像は、NBAファンなら何度も見たことだろう。

NBA75周年記念チームに選ばれた彼だが、実は50周年記念チームの時には選ばれていなかった。今回でようやく記念チーム入りを果たしたわけだ。

優勝経験も無く、「史上最高のSF」議論で名前が挙がることも基本的には無い。だが、通算得点は歴代13位と、ダンク以外でも素晴らしい功績を残している選手の1人だ。


NBA以前

Wilkinsの父親は米軍の空軍に所属、フランスに駐留していた。この関係でパリで生まれている。3年後に弟のジェラルド・ウィルキンスも誕生。後に同じくNBA選手となっている。ちなみに弟の愛称は”ジョーダンストッパー”。弟のジェラルドもスラムダンクコンテストに1986年,1987年に出場しているが、決勝に残れていない。ちなみにジョーダンストッパーと呼ばれているのは、『ジョーダンを止めることができる』と話したからだ。マーク・プライスなどを擁する当時強豪の1つだったCLEに1993年に加入した彼は、プレーオフでの対戦を前にそう豪語した。後のインタビューでは兄のDominiqueが「『ジョーダンを怒らせてはダメだ』と弟に言ったよ」と明かしている。もちろん、93年と言えばジョーダン率いるCHIの3連覇達成でシーズンは終了している。ジョーダンストッパーの役割は果たせなかったわけだ。


本人の話に戻そう。

父親の仕事の関係上、移住を繰り返しながらの生活が続くが、ようやくワシントンに定住。

高校生では既にとある試合で48得点 27リバウンド 8ブロック ダンク数9と、ヒューマンハイライトフィルムは完成形に近かった。

大学でもカンファレンスMVPに選ばれるなど、高い期待を背負ってNBAドラフトへ臨むこととなった。


NBA 〜Hawks〜

Atlanta Hawksでのイメージが強い彼だが、実はドラフトは3位でUta Jazzに指名されている。しかし、チーム側の「PFとしてプレイしてほしい」という意見に対してWilkinsはSFを希望しており、さらに資金面でもJazzは問題を抱えていた。結果、JazzはトレードにWilkinsを出すことになる。100万ドルとフリーマン・ウィリアムズ、そして当時のHawksのエースだったジョン・ドリューをトレードで得たJazzだが、このトレードは後に「リーグ史上特に偏ったトレードの1つ」と言われるようになる。トレードアセットの1つとなっている“100万ドル”だけでも、HawksとWilkinsが結んだ最初の2年契約の額に相当するのだから、偏ったと言われても仕方無いだろう。

Wilkinsは10シーズン連続で平均25得点超えと、期待にそぐわぬプレイを見せる。1984年のダンクコンテストでは優勝を逃すも、1985年にはクライド・ドレクスラーやマイケル・ジョーダン、さらに前年チャンピオンのラリー・ナンスが出場するダンクコンテストでも優勝を果たし、オールスターにも選出。翌年の1996年にはダンクコンテストで同じチームに所属する“伝説の小型ダンカー”であるスパッド・ウェッブと決勝で対決し敗北。しかしシーズン得点王も獲得するなど、名実ともにスーパースターとなる。

1986-1987シーズンには当時球団記録となる57勝に導く(2014年に60勝で更新されたが球団史上2位)。しかしプレーオフでは2nd Roundの壁を越えられない状態が続く。Wilkins在籍中のATLは球団史でも特に安定して毎年良い成績を残しているのだが、1度も2nd Roundを突破出来ず。アキレス腱の断裂なども経験し、徐々にキャリアは晩年を迎えるWilkinsは3Pシュートの強化など時代に合わせた進化を続ける。

1998年のダンクコンテストでは、ジョーダンとの3年ぶりの再対決が実現。決勝での3つのダンクの内2つは50点の満点を受ける。ジョーダンも50、47得点と高い数値だった。しかし、3つ目のウィンドミルダンクがなぜか45点と低く評価される。そしてジョーダンは有名なレーンアップで優勝。

「この年の開催地がシカゴだったことからジョーダンが優遇された」とも言われている、ややモヤっとした締めになってしまった伝説のコンテストである。



トレード、世界、兄弟

高い得点力を維持するWilkinsだったが、1993-1994シーズン中にトレードに出されLos Angeles Clippersへ。ATLはトレード時点ではカンファレンス首位で、首位チームの得点源だった選手がオールスター明けにトレードされるという史上初の例となった。34歳のWilkinsの契約が最終年だったこともあり、再契約の意思が不明確だったことが理由とされている。

LACでシーズン終了後にFAとなったWilkinsはBoston Celticsと契約。さらにオフにはドリームチームⅡと呼ばれる1994年オリンピック代表に出場し、金メダルを獲得。当時のBOSはロバート・パリッシュとケビン・マクヘイル、そしてラリー・バードが抜けて数年後の再建期であり、シーズン平均17.8得点でチームのリーディングスコアラーと、前年から12得点ほど成績を落とすほど苦しい状況だった。

プレーオフ1st Roundで敗れてシーズン終了となるが、この時のホームであるボストン・ガーデンはシーズン終了と共に閉鎖となった。ビル・ラッセル時代の8連覇など様々な歴史を刻むこのコートで、最後の得点を決めたのはWilkinsだった。


BOSの再建状態に耐えかねたWilkinsは移籍を決意。ギリシャリーグに加入した。彼を迎え入れたPanathinaikos(チーム名)は2年700万ドルの大型契約を結ぶ。さらに、4階建の大理石でできた家と、2台の高級車まで用意した。

しかし35歳のWilkinsは決して期待されたほどの活躍は出来ず、加えてシーズン中に何度も個人的な旅行でアメリカに戻り、何度もチームから罰金を科されるなど、コーチとの衝突が絶えなかった。

しかしその後、ユーロリーグが始まるとチームに大きく貢献し、ファイナルフォー進出の立役者に。ギリシャカップでは優勝に加えてMVPも獲得するが、ギリシャリーグでも決勝まで導くが優勝は叶わず(一緒に聞こえますが、別物の大会です。笑)



翌年の1996-1997シーズンにはNBAに復帰。多くはベンチスタートではあったものの、わずか6試合の出場に終わったデビッド・ロビンソンよりも高い平均得点(18.2)でチームに貢献した。ちなみにこの時の着用番号はお馴染みの#21で、翌年に加入し永久欠番となるティム・ダンカンの前に最後の21番をSASで着用した選手となった。

ダンカンと入れ替わりでチームを去ったWilkinsは、イタリアリーグのFortitudo Bolognaと契約。ここでも年齢相応クラスの成績を残し、1年で退団となる。


Wilkinsの最後のシーズンとなる1998-1999シーズン、弟のジェラルドが所属していたOrlando Magicと契約。2人ともこのシーズンの平均出場時間は9.3分で、兄は27試合、弟は3試合の出場に留まったが、弟の最後の出場試合には兄弟揃ってコートに立っている。