久しぶりの更新になります。

 

 「A氏の日記」 その5です。

 

 今までのお話はこちらから。

 

 連続小説「A氏の日記」 その1

 

 連続小説「A氏の日記」 その2

 

 連続小説「A氏の日記」 その3

 

 連続小説「A氏の日記」 その4

 

 

それでは本編です。

 

 

 

 

帰り道の電車の中、宇佐見はA氏からもらった薬瓶を鞄から取り出し、手のひらに乗せて眺めながら色々と考えていた。

 彼は薬学部の出身でもなかったし、科学についての知識も世間一般程度のものしか持ち合わせていなかったので、この薬がどのようにして作られたものなのか、全く想像もつかなかった。又、当然のことながら、こんな薬があったことも今日初めて知った。…もっとも、知っていればわざわざA氏を訪ねたりはしなかっただろう…。

 しかしながら彼にはやはり納得がいかなかった。それもそのはず。素人が考えても、酒が強くなる、などという都合のよい薬があるとは到底思えなかった。

 …こんな話は初めて聞いた。本当にこの薬で俺の悩みが解決するのだろうか…。

 …Aさんは大学の研究室から手に入れたと言っていた。けれど、そんな物が開発されているなんて、聞いたこともない。本当なら、Aさんが言うような効果があるのなら、発売前でもニュースになっているはずだ…。

 …ひょっとsて、まだ試験中の薬じゃないだろうか。あのAという男は実は大学の関係者で、俺をモルモットにするんじゃないだろうか…。

 数年前、世間を騒がせた某製薬会社の不法投与実験のニュース記事が頭の中をよぎる。

 …いや。単に俺をからかっているだけなのかもしれない…。

 様々な考えが頭の中をかけめぐる。考えれば考えるほど都合のよすぎる話としか思えない。しかし、宇佐見にはA氏が嘘をついたり騙しているようにはどうしても思えなかった。A氏のあの人なつっこい笑い顔を思い出すと、とても悪い人間には思えなかった。

 いくら考えてみても仕方ないことだった。実際に試してみない限り、本当に酒に強くなる薬だということは証明できないのだ。

 宇佐見は実際位に試してみようと決心した。帰り道にある居酒屋で試すことも考えたが、万が一薬が効かず、暴れたりしたら大変なので、家に帰ってから試すことにした。

 

 テーブルの上には缶ビールが十本ほど並べられていた。そしてテーブルの前には、三脚に固定されたビデオカメラが置かれていた。これで仮に酔っぱらったとしても、どうなったかがはっきりとわかる。それに、万が一副作用があり、体に変調をきたした場合には、A氏からもらった薬が原因であるという証拠となるかもしれない…。

 宇佐見はカメラの電源を入れ、カメラの正面に座った。

「さてと。」

 宇佐見は例の薬瓶を取り出した。蓋を開けると、中には黄色の錠剤が詰まっていた。一見すると、ビタミン剤のようにしか見えなかった。臭いは特になかった。

「こんな物が本当に効くのかなあ。」

 やはり信じられなかった。副作用も、もちろん怖かった。A氏は何ともないと言っていたが保証はない。嘘をつかれていたとしたらそれまでだ。

 しかしながら、相田部長の接待は明後日に迫っていた。今更他に方法はない。もし、再び同じ失敗をすれば、きっとクビになるだろう。運がよくても左遷は間違いないだろう。なにしろ相手は会社の大事な取引先の部長なのだ。

 今更他にどうしようもなかった。

 宇佐見は意を決した。

 手のひらの上に錠剤を一粒取り出した。そして大きく深呼吸を一度すると、薬をゴクリと飲み込んだ。

 しばらくの間何もせずにじっとしていた。一分、二分…。体に特におかしなことはおこらなかった。吐き気がしたり、頭が痛くなったりすることもない。今のところ副作用らしきものはないようだった。

 問題は効き目である。

 缶ビールを一本、一気に飲み干してみた。続けて二本目。いつもなら、そろそろ目の前の光景が歪みはじめ、頭の中が真っ白になる頃だった。

 しかし不思議なことに、今日は何ともなかった。頭もすっきりしているし、気分も悪くならない。コーラを飲んでいるのと全く変わらなかった。

 思い切って続けざまにビールを飲み干す。七本、八本…。とうとう十本全てを平らげてしまった。しかし体の方は何ともない。シラフの時と同じだった。

 A氏の言った通り、薬の効き目は本物だった。

 宇佐見は心底ほっとしていた。これで接待も何とかなる。クビにならずにすみそうだ…。頭の中に浮かぶA氏の顔が福の神のようにすら見えた。

 うれしくなってきた。

 笑いがこみあげてきた。

 今までの胸のつかえがとれたせいか、久しぶりに心の底から笑えた。他人が見たら、その笑いぶりを奇妙に思ったことだろう。かなりすさまじい、部屋中に響く笑い声だった。

 不思議な話があるものだ…。つくづくそう思ったが、余計な事を考えるのはやめた。とりあえずはこれで万事うまくいくのだ。細かい事は後から考えればいいのだ…。

 一人ぼっちの部屋に、宇佐見の笑い声が響いていた。