前回からの続き。今回は、かなりの長文です。
唐突ではあるけれど、
『レビューはパリの申し子』である。
父はパリ大改造を行った『ナポレオン3世』、母は『パリ万博』だ。
第1回パリ万博は1855年だから、誕生して今年で166歳になる。
世界で初めての万博は、1851年のロンドン万博だけれど、ロンドンでは生まれなかった。
これにはハッキリとした2つの理由がある。
1つは、イギリスが万博の内容に、産業や工業の発展に重点を置いて、文化や芸術は二の次だったこと。(大英帝国の威信を見せつけるような博物館などには力を入れていた)
もう1つは、インフラなどの整備を大々的にしなかったことだ。
『インフラが、レビューに何の関係がある?』
と不思議に思われるかもしれないが、これがとても重要なのだ。
『万博をやる!』『パリを全部改造する!』と言うのだから、とにかく大土木工事が何年間も続く。
工事には大量の人夫が必要になるし、その人夫たちの衣食住を賄う人員も必要になる。
さらに娯楽も重要だ。
革命やら戦乱で、人口が減っていたパリは、
瞬く間に人で溢れ返り、空前の『万博バブル』を迎えた。
以前は暗闇と悪臭漂うパリの街が、路地裏まで綺麗に整備され、電灯で明るくなり、
夜も安心して歩けるようになった……
活動できる時間が長くなった……
好景気だから、懐も暖かい……
それでようやく、一般庶民でも芸術や娯楽、
ファッションを、誰もが気楽に親しめるようになる。
万博の魅力の1つと言えば、
自国にいながら世界の様々な国の文化、文物に直接触れられること。
パリ万博は1855年の第1回から、
1900年の19世紀最後の第5回まで、約10年おきに開催され、その度毎にパリの文化と娯楽は、大きな影響を受ける。
『ピガール狂騒曲』の主題歌のように、実際の生活で『スペクタクル』が溢れているから、世紀末を目前にしたの人々は『より新しいもの』『より刺激的なもの』を求めた。
そんな人々の欲求に応えるため、パリの興行師たちは、軽業、曲芸、奇術、ダンス、見世物と、ありとあらゆる演物を、万博を真似て一堂に会して見せるようになる。
判りやすい例が『サーカス』だ。
それまでは、軽業や曲芸、動物芸など、それぞれが一座で、バラバラで興行していた。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20210728/03/nb-n/7b/bb/j/o0668095114978592016.jpg?caw=800)
1867年第2回パリ万博の開催中に、パリで興行していた『帝国日本芸人一座』の様子。日本人の旅券第1号となった隅田川浪五郎の一座である。他にも、早竹虎吉一座、
鉄割福松一座、大竜一座、松井源水一座などなど、多くの芸人たちが海を渡っている。
日本は丁度、幕末から明治になろうとする頃。
第2回のパリ万博には、日本から軽業の一座が興行している。その後も、いくつもの一座が
パリに渡っている。
有名なのは、世紀末の1900年第5回パリ万博で話題になった『川上音二郎・貞奴一座』だ。
余談ついでに、
このパリ万博帰りの芸人達や、アメリカで
ダンサーとなった高木徳子らが始めたものが『浅草オペラ』の発端になった。
レビュー劇場の先駆けとなった
『フォリー・ベルジェール』は、元々はオペラの劇場としてオープンしたが、経営不振から
見世物小屋へと興行内容を変えた。
これが大当りする。
因みにフォリー・ベルジェールは、現在も営業を続けている。
このレビューの大本山で、初めて東洋人として主演を勤めたのは、元星組トップスターの
『ゴンちゃん』こと上月晃である。
ゴンちゃんは、フォリー・ベルジェールで3年も主演を勤めた。
再び、話を戻して……m(_ _)m
こうして、世界中の珍しい物や新しい物、
新しい演劇、新しい音楽、新しい曲芸、新しい見世物…… などの興行を、
『調査する・改めて見る・批評する』という
意味の言葉で『レ ビュウ』と呼んだ。
これが『レビュー』の誕生である。
アメリカでは、この何でもありのスタイルを、後に『バラエティショー』と呼ぶ。
レビューの定番形式に『世界巡り』があるのは、万博から生まれたからなのだ。
このような『何でもあり』の内容では、
1つの公演に色んな出演者が登場するため、
舞台転換に時間がかかる。
その間繋ぎに、演目の内容を説明し、紹介する司会者が必要になった。
が、当時はまだ司会者という職業はなく、
シェイクスピア劇で口上を述べるような役者や、大道で寸劇=ヴォードヴィルを演じる役者=ヴォードヴィリアンなどが、司会者の役割を果たしていた。
『アンバサドールのアリスティード・ブリュアン』
アリスティード・ブリュアンは、自ら作詞作曲もし、カフェ『ル・ミルリトン』も経営していたシャンソン歌手だ。
谷正純 作 星組公演『1914 愛』の主人公の
モデルである。
鉄道員から転身して歌手となったブリュアンは、それまでには無かった市井の人々の暮らしや悲哀を歌い、曲の合間には毒舌と社会風刺を語って絶大な人気を得た。
当然、ブリュアンを真似る歌手やヴォードヴィリアンが現れ、レビューの司会者は喋るだけでなく、演じ、歌うようになる。
司会者が『狂言回し』のようになったのだ。
初期のレビューに『風刺』の要素が加わるようになったのは、ヴォードヴィルのネタや、
ブリュアンが創始した現実派シャンソンの影響からだろう。
これが後に、1年間を振り返り、社会風刺を
する内容の『レビュー』になる。
以前に紹介した、ラジオシティミュージック
ホールの『クリスマス スペクタキュラー』は、その1年間を振り返る形式のレビューから発展したものだ。
しかし、人々のより激しい刺激を求める
『欲求』は、毒舌や社会風刺だけでは収まらなくなり、世紀末の世相と相まって、どんどん
退廃的な方向へ傾いて行く。
レビュー劇場『フォリー・ベルジェール』でも、それまでのレビューや見世物では客足が遠退き始めた。
やがて、劇場経営者が変わり、踊り子が
ストリップ紛いなことをするようになった。
そんな頃に生まれたのが、カンカン(フレンチ カンカン)である。
『カンカン』の元々は、ペアダンスの最後に、2人がスキップをするように足並みを揃えて、激しく早く輪になって踊る『ギャロップ』だった。
初期のカンカンは、このギャロップを更に激しくして、カフェなどに酒を飲みに来た客と、
給仕する女性がカップルとなって踊る、ある種の接客サービスだった。
これが、世紀末の退廃的なムードが漂う頃になると、ペアではなく女性が1人で激しく踊り、男性はそれを見て楽しむスタイルになる。
『ギャロップ』が大流行したウィーンでは、
あまりの激しさに倒れる人々が続出したため、ダンスホールでの演奏が禁止された。
パリでギャロップが変化した原因は、カフェなどのダンスフロアには、広さに限りがあったこと。そして何より客が酒ではなく、ダンスで
倒れては意味が無い(笑)
サービスをする彼女たちは、ダンスを基礎から学んだ訳ではないし、専門の振付家がいた訳でもないから、音楽に合わせて好き勝手に踊り、決まった衣装も無く、言わば
『目立つた者勝ち』の状態だった。
カンカンといえば、『キャー!』と奇声を発したり、三枚目的な動きや変顔をするのも、この草創期の『目立つた者勝ち』の名残りなのだ。
高級な黒の絹のストッキングを見せている。
当時、黒の高級な下着は『娼婦の象徴』だった。
ジャンヌ・アヴリルは娼婦ではないが、黒のストッキングを見せて踊ることは、とてもショッキングだった。
この当時『カンカン』で一躍スターとなったのがジャンヌ・アヴリルやラ・グーリュだ。
ミュージカル映画『ムーラン・ルージュ』の
モデルにもなったジャンヌ・アヴリルは、一座を率いてロンドンで公演し、ロンドンでカンカンブーム、レビューブームを巻き起こす。
このブームをアメリカに持ち帰ったのが、度々名前を挙げている
フローレンツ・ジーグフェルドJr.だ。
ジーグフェルドも、実父が経営するナイトクラブの客寄せに、見世物興行を行って大成功し、次の新しい演目を探してヨーロッパ各地を
周っていた。
当時のアメリカは、イギリスや日本と同じように、パリやヨーロッパで活動していた芸人や
ダンサーらが頻繁に往来して、新しいエンターテイメントが誕生しつつあった。
枠内の白人たちが、それぞれ下にいる黒人に扮している。
白人が、わざわざ顔を黒く塗って黒人に扮し、黒人の動作や訛ったしゃべり方を真似て、社会を風刺するという、ほぼ差別ネタ満載の『ミンストレル・ショー』や、アメリカに移住してきたヨーロッパ人向けのオペレッタなどが誕生している。
皮肉なことに、ミンストレル・ショーが誕生したことで、フォスターなどによるアメリカ民謡や黒人ジャズが、一気に音楽性を高めることになった。
またロイ・フラーやイサドラ・ダンカンと言った『モダンダンス』『モダンバレエ』の祖が、アメリカからパリ、ヨーロッパに渡り成功している。
さて、ジーグフェルドに話を戻そう。
ジーグフェルドが画期的だったのは、それまで一貫性が無かったレビューの構成を見直し、
ある種のテーマを持たせるようにしたことだ。
彼のレビューのタイトルは『19○○年のジーグフェルド・フォリーズ』(Ziegfeld Follies)と年数が入っていて、その年の流行をどんどん取り入れる、あるいは流行を作るというスタイルだった。
そして次に画期的だったのは、スターの使い方と、作り方にある。
それまでのスターと言えば、
『スター = 一芸に秀でた人』であり、スターと成るにも、一定の時間が掛かった。
観る側も『そのスターの芸だけを見ればよい』
というものだった。スターに『それ以外の芸』は求めなかったのだ。
例えばジャンヌ・アヴリルの一座なら、観客は彼女のカンカンを目当てに来るのだから、彼女を観たら帰ってしまう。
なので彼女の出番は、クライマックスか最後にしなければならない。アヴリルが他の演目には出ない……というよりは出れないからだ。
ジーグフェルドのレビューは、とにかくスターを多用した。
顔とスタイル以外は全く取り柄のないスターなら、顔とスタイルだけを強調するような演出や衣装を着せ、要所要所で劇的に登場させたり、ファニー・ブライスのような『リアクション女王』なら、コントの場面を多くし、どんな場面にもスターを出した。
スターの間繋ぎやコーラスガール、バックダンサーには、容姿端麗な若い女性ばかりを集めた『ジーグフェルド ガールズ』を使った。
そしてこのジーグフェルドガールズから、
新たなスターを発掘したのだ。
バーブラ・ストライサンドが、1964年アカデミー主演女優賞を獲得した『ファニー・ガール』は、ブライスの伝記をミュージカル化したものだ。
そうなると、間繋ぎ役だったヴォードヴィリアンは不要になり、やがてアメリカのレビューから姿を消す。
彼らの一部は、映画という新しいジャンルに進出して行った。
チャップリンもアステアも、ヴォードヴィルから映画に移った人たちだ。
またパリのカフェのように、踊り子が好き勝手に衣装を選び、好き勝手に踊るのではなく、
デザイナーがデザインした場面ごとの衣装、装置、照明、振付家が振りを管理するなど、現代では当たり前のショーの基本を作り上げる。
さらに、ミンストレル・ショーやオペレッタの要素を取り込み、テーマに沿った物語が、寸劇=コントとなって表現されるようになる。
このレビューのスタイルは、すぐにヨーロッパにも逆輸入され、衣装や音楽面では多大な影響をもたらした。
しかしヨーロッパでは、すでにオペレッタが完成していたこともあって、レビューにテーマや物語を持たせる事は、余り発展はしなかった。
一方のアメリカでは、レビューのテーマや物語が、どんどん重要視されるようになる。
これはヨーロッパの文化に対する
『新しい国 アメリカ』のコンプレックスと
言えるだろう。
ジーグフェルドは、そんな観客たちの要望に
応え、1927年に女流作家エドナ・ファーバーが書いた『ショウボート』を舞台化する。
初演のポスター
オペラやオペレッタのように、神話や過去の時代を舞台にした、ファンタジーや時代劇ではなく、現代社会を舞台にした、リアルな設定の一貫したストーリーが展開するこのレビューは、後に『Book Musicals』(ブック ミュージカル)の最初の作品と呼ばれる。
ジーグフェルドは、その後もレビューを中心に、ミュージカル『リオリタ』なども手掛けている。
ところが、1929年。
ニューヨーク市場の株の大暴落から始まった、世界恐慌のために資金難に陥ってしまう。
過去のヒット作を再演するなど、再起を模索したけれど、往時の勢いを取り戻すことは出来ず、資金調達に苦しむ中、ジーグフェルドは1932年に急死する。
ジーグフェルドの死によって、
アメリカのレビューは終焉を迎えた。
とにかくレビューはお金が掛かる。
大不況の真っ只中で、誰もジーグフェルドの
ような豪華な舞台を作ることは出来無かった。
その結果、ケガの功名というか、私たちが漠然と『ショー』だと思っているスタイルが、アメリカで誕生する。
まず、レビューで最も費用が掛かる衣装や
装置、出演者の数を片っ端からカットした。
ただ、これだけなら
『見すぼらしいレビュー』にしかならない。
観客にしても、いくら「スターが見れれば良い~」と言ったところで、棒立ちの美人をそう
長くは見続けられない。
突き詰めて行くと、
スターの芸、特技=エンターテイナーとしての力量が問われることになった。
要するに
『スター1人で、どれだけ場を持たせられるか? 』ということだ。
そして『より長く場を持たせられる力のある者がスター』へと変化する。
例えばジョセフィン・ベイカーのように、
ダンサーとしてデビューした後、歌手となり、また映画でも主演する =『オールラウンダー』になることが、スターの条件となった。
これが『スター = 一芸に秀でた人』という
レビュー全盛期のスターとの違いである。
レビューのコストカットから、アメリカで誕生したショーは、『スター = エンターテイナー』の技能、魅力を見せる SHOWとして完成する。
アメリカのショーは、演者 = スターがいることが前提だ。
そこに時代や季節、流行、衣装、装置と言った『演出』を、どんどん加えて行く。
加えて行く量が多くなれば、最終的にはレビューのように豪華になる場合もある。
『見せる』ことが目的であるから、ショーの構成内容は、そのスターの技能や特技、特徴によって変わる。
スターの技能に問題があれば、
たちまち『マンネリ化』してしまう。
スターの技能や研鑽に左右されるのだ。
対するレビューは、最初に『作品』のあることが前提だ。
そして、その作品の内容に相応しいスターを配置する。
出演するスターが『一芸』の人であろうと、『オールラウンダー』であろうと関係はないし、人数も上限は無い。
予算が許すなら、スターで埋めつくしても構わない。
それは『いかに作品を表現するか? 』が目的であるからだ。
この考え方が、後のミュージカルや映画などの『オーディション形式』に繋がる。
戦前の宝塚の『レビュー黄金期』と呼ばれた頃の作品を観れば、1作品にスターが『これでもか!』と配置されている。
『エッチン・タッチン』こと、三浦時子、橘薫のコンビや、葦原邦子などは、ほぼ毎月、大劇場や中劇場に出演していた。
それが可能だったのは『専科』という制度があったからだ。
(専科については、また別の機会に)
長くなったので、一度整理しておこう。
『ショー』とは『演者(スター)の技能、魅力を表現するためのもの』
『レビュー』とは『テーマや物語を、相応しい演者(スター)を使って、表現するもの』
と言うことになる。
ヨーロッパでもアメリカでも、恐慌と戦争に
よって、レビューは壊滅状態となった。
戦後のアメリカは、ショーとミュージカルが中心となり、ラジオシティ・ミュージックホールの『クリスマス スペクタキュラー』が残るくらいになる。
テレビと言う『無料で娯楽を提供する媒体』が世界中に拡がったため、スターを実際の舞台で観る意味が無くなってしまった。
極端なことを言えば、ショーに出る者がスターである必要が無くなったのだ。
かろうじてヨーロッパで『レビュー』と呼べるものは、やはりパリの『ムーラン・ルージュ』や『リド』と言ったキャバレーと、
レビュー劇場『フォリー・ベルジェール』、
ベルリンの『フリードリッヒ・シュタットパラスト』くらいになった。
ドイツ ベルリンにあるフリードリッヒ・シュタットパラスト劇場は、宝塚も2000年に公演したことがあるヨーロッパ最大のレビュー劇場で、現在も公演が続いている。
新宿コマ劇場と良く似ていて、すり鉢状の客席に、円形舞台の2/3が飛び出ている、レビュー専門の劇場だ。
以前に例に挙げた、シナトラとデイビスの
『ショー』の様子と、一目見ただけでも違いが判るだろう。
M氏の言う
『レビューは、レヴューを作れる人と環境がなければ完成しません』
の意味が、これで『なんとなく』でも、ご理解頂けただろうか?
長文をお読み頂き、ありがとうございます。
次回は最終回『レビューの王様』こと白井鐵造について。