宙組、1年振りの大劇場公演だと聞く。
そう聞くと、本当にこの1年は『大変な年だった』と思わずにはいられない。

その宙組が観せてくれるのが、ミュージカル『アナスタシア』である。

率直な感想は『面白かった』なのだが、臍曲がりなことを言えば『何かが足りない』のだ。

誉める前に、悪いところを。
ネタバレもありますm(_ _)m
どうぞ御容赦。

ロシア大公女アナスタシアを扱ったもの、いわゆる『アナスタシア伝説』を扱った作品は、マルセル・モーレットの戯曲『アナスタシア』を原作にしているものが多い。

イングリット・バーグマン、ユル・ブリンナー共演の『追想』、20世紀フォックスのアニメ映画『アナスタシア』もそうだ。
今回のミュージカル『アナスタシア』は、このアニメ映画を基に、再構築されたものだ。
このアニメ映画をディズニー作品と思っている人が多いが、ディズニーのスタッフが製作したものではない。

3年ほど前に、この作品をブロードウェイで観たが、やっぱり『何かが足りない』と思った。

このような史実とフィクションを融合させた作品は、史実とフィクションの割合と、その折り合いの付け方が難しい。

今回の『アナスタシア』では、アナスタシアが生きている=アーニャがアナスタシアであると言うフィクションが結末になっている。

『何かが足りない』と思わせられるのは、アナスタシアとアナスタシアに関わる人々の悲劇がとても曖昧になっているからだ。
まあそれは仕方あるまい。元が子供向けに製作されたアニメ映画であるから、血生臭い政治的な内容やドロドロとした人間関係は、最初から排除されている。
何しろ敵はラスプーチン実は悪魔と言うのが、アニメ映画の設定だ。

ところが舞台化に当たって、敵は史実通りのソビエト共産党に変わった。
他にもちょこちょこと史実が織り込まれているのに、それが全くアナスタシアに関わってこない。

プロローグのマリア皇太后とアレクサンドラ皇后の険悪な状態は史実であるけれど、では何故マリア皇太后がアナスタシアだけを可愛がったのかと言う説明は全く無い。
後に証拠となるオルゴールをマリア皇太后がアナスタシアにプレゼントする場面であるのにだ。

皇帝一家は、記念撮影を何度もする。写真撮影は皇帝ニコライ2世の実際の趣味だった。
当時、皇族や王族の肖像画や肖像写真は、アイドル並みに市中に溢れていた。
なので皇帝一家の顔は、誰でも良く知っていた。

ロシアを去る駅の場面ではイポリトフ伯爵が、オペラ座ではマリア皇太后も伯爵夫人のリリーも、顔を見てアナスタシアと判断している。
しかし、1幕ではディミトリもヴラドもグレブも全く気付かない。

グレブにいたっては、アーニャの瞳についてのセリフがあるのに、それでもアナスタシアと確信したかどうかは曖昧なのだ。
史実では、アナスタシアは青い瞳であったことが知られている。

皆がアナスタシアに詳しく、アナスタシアを探しているのに、誰一人として『似ている』などと言うセリフがない。
大体がディミトリもヴラドも最初から偽物を仕立てると言うことを無意味だと自覚しているのに、アーニャをアナスタシアに仕立てようとする。

ところが2幕になると、急にディミトリだけがアナスタシアに会ったことを思い出す。

ちょっと都合が良すぎるのだ。

政権を握った発足間もないソビエト共産党が、保守派の政権打倒に利用されないようにとの理由で、裁判もせず極秘裏に、皇帝一家とその臣下を惨殺した。
実に政治的で、非人道的なことが『革命』という言葉で許されてしまう。さらに『革命』は、社会秩序や文化を破壊し、人間性をも奪って行く。

革命を起こした側にいるグレブの悩み苦しみは、ここにある。

革命がなければ、グレブは田舎の一青年として一生を終えていたかも知れない。
しかしグレブの父親は、革命を善だと信じた結果、英雄と称えられながらも、自身はただの人殺しだと罪の意識に苛まれ、それが原因で家族は崩壊した。
グレブは個人の感情を抑え、国のために犠牲になることが善だと信じている。
それがアーニャに対する感情が抑え切れなくなり、葛藤するのだ。

アナスタシアは革命によって、家族も記憶という過去も失い、自分が何者であるかが判らず、ずっと怯えて暮らしている。
マリア皇太后も家族を失い、国も地位も失い、さらに偽者騒動で心の平穏まで侵されている。

ヴラドや伯爵夫人のリリーも、地位や財産を失い……

つまりこの物語は、それぞれが革命によって失ったものを取り戻し、人間の本当の幸せとは何かを問うのがテーマだ。
それが『復活』という意味も持つ『アナスタシア』のタイトルに込められているはずである。

その意味で、1幕の主役はアナスタシアとヴラドであると思っている。

残念ながら、ブロードウェイのオリジナル版も宝塚版も、第1幕の内容が薄いのだ。
もっと強烈に、革命の恐怖やソビエト共産党の狂気さを出すべきではないだろうか?

オリジナル版には、実際の兵士は現れず、背景のプロジェクターに赤軍のシルエットが投影される。
宝塚版では実際に銃を構えた兵士が登場する。
これは良い。良いのだが、兵士がみな綺麗過ぎるのが玉に瑕だ。
汚す必要は無いけれど、もっと野蛮な感じや凶悪性を強く表現しても良いのではないか?

オリジナル版では、アナスタシアは撃たれたような仕草で暗転となるが、宝塚版では兵士に制止されて暗転となる。
この兵士が、ヴラドの父親かどうかも判らない。

幕開きから10分で革命を描くのだから、もっと突っ込んだものでないと、アナスタシアもヴラドの悲劇も薄くなってしまう。

春に公演された東宝版は、ブロードウェイのオリジナル版をほぼ踏襲している。
主役もアナスタシアだ。
オリジナル版は、劇場の狭さもあるが、ビックリするほど『汚い』。
幕開きのアナスタシアの寝室も、どこかの屋根裏部屋か? と思ってしまう。プロジェクターによる映像がなければ、ずっと屋根裏部屋にいるようだ。

宝塚版は、もちろん男役トップが主役であるから、ディミトリを軸に潤色されている。

だがこのディミトリと言う役が非常に厄介だ。
彼だけは『革命』とは直接の関係が全くない。
むしろ帝政時代の被害者であり、アナスタシアら皇帝一家や貴族らに復讐する権利さえあるかもしれぬ立場だ。
その復讐を革命という言葉に置換えても、そんなことを自覚している庶民はいないだろう。
何しろ『革命を支持なんかするんじゃなかった』と歌っているくらいだ。
かと言って、偽アナスタシアを仕立て『何が何でも金を手にするぞ‼️』と言うほどの悪でもない。

オリジナル版も東宝版も『街のゴロツキ』と言う風だ。
そのために、ディミトリは何をきっかけにアーニャに対して恋心を持つようになるのか?  そしてアーニャもどうしてディミトリを信用しようとするのかが曖昧なのだ。

たった1曲歌っただけで、ディミトリが『パリに行くのは無理だ、すまない』とアーニャに告げたり、それを聞いて『あなたを信じきれていなかった』とアーニャがダイヤを出すのは、あまりにも乱暴過ぎる。

それに対してグレブのくだりは丁寧なのが、どうもバランスが悪い。

2幕のドラマが濃いだけに、1幕の曖昧さがとても残念だ。


悪口はここまで。

先ずはトップの真風涼帆から。

ディミトリを演じる真風涼帆は、とにかく姿が良い。

オリジナル版のディミトリはマッチョで労働者ぽく、とても帝政ロシア時代の人間とは思えなかったし、東宝版のような悪ガキタイプでもない。

この真風の姿の良さが、ラブストーリーの要素を唯一補っていると言えるだろうし、この人の誠実さがあるから、アーニャから信頼を得たのだろう……と、変な納得をさせられる程だ。
本人に確認した訳ではないが、おそらくビックリするくらい掴みどころが無い役だっただろう。

何しろ役の為所が、2幕の皇太后に突っ掛かるところだけなのだ。
本当に唯々『お疲れ様』の一言しかない。

この役は、礼真琴や柚香光、望海風斗には無理だ。珠城りょうなら出来る気もするが、雰囲気が違う。
真風だから似合うと言える。

オープン翌日と、約1ヶ月後の2回観た。おそらく演出家からの指示もあったのだろうが、格段に良く役をこなしていた。
この人には、明日海りおのような便所の100W的な無駄な華やかさは無いけれど、麻実れいのような落ち着きと、目を引くものがある。
これは得難いものだ。

望海風斗が退団すれば、大人を演じられるトップがいなくなってしまう。
出来ることなら、長くトップを続けて欲しい。


次に、難役グレブを演じる芹香斗亜である。
欲を言えば、この人にはもう少し弾けた突っ込んだ演技をして欲しかった。
と言うのも、ディミトリ役を何とかするには、脚本を根本的に改める必要があるけれど、グレブ役は演じ方でかなり変えることが出来るからだ。
そりゃ脚本に可笑しな点があるのはディミトリ役と同じ。
例えば、グレブはアナスタシアを探しているにも関わらず、アナスタシアの顔を知らないし、調べようともしない。でも、後で指名手配の写真は出てくる(笑)

しかし、先述のように、グレブは丁寧に描かれていて、彼のドラマがどこあるのかは明白だ。
芹香のグレブは、アーニャの前で見せる素顔の演技がとても良いのに、ボリシェビキになるとボヤけてしまうのだ。
もっと狂気じみていても良い。
その方が2幕のクライマックスで、アーニャを殺せないグレブの人間性がより際立つはずだ。

2度目に観た芹香は、とても良くなっていた。東京公演が楽しみだ。

そして次は、マリア皇太后を演じる組長の寿つかさである。

この役に絶対必要なのは、威厳と知性と美しさである。
それが寿には備わっている。
史実では、皇帝に代わって実務をこなしていた女傑だ。
東宝版では麻実れいが演じた。
麻実と比べることはないけれど、寿のマリアは麻実に勝るとも劣らない出来である。

注文を出すとすれば、もう少しボリュームがあるドレスを衣装さんにお願いしたい。

さらに次は、伯爵夫人リリーを演じる和希そらとヴラド役の桜木みなとである。

オリジナル版では初老の役を、若い2人に割り当てるのは、少々お気の毒だ。

だがしっかりと、コメディの要素と狂言回しの役を担っている。
この役柄は『憎めない人物』でなければならない。桜木の愛嬌も、和希の良い意味での無駄な色気も、ぴったりと役にはまっている。

一緒に観た友人が『ヴラドは落ちぶれ貴族と説明があるのに、ナンバーでは平民と歌っているのはなぜ?』と不思議がっていた。

オリジナル版の設定がどうなっていたか、記憶はしていないのだけれど、おそらくはヴラドは『準男爵』のような身分なのだろう。

準男爵とは、称号のみ与えられるもので、国家や王家に対する功績で与えられることもあれば、金銭で買うことも出来た。
なので身分的には貴族ではなく平民なのだが、平民から見れば貴族の仲間になるという微妙な立場だ。
オリジナル版のセリフでは、ディミトリやゴロツキを『昔の仲間』というような表現を良くしていたので、ヴラドはそういう身分を金で買ったのだろう。

最後は、タイトルロールを演じた星風まどかである。

こう言う記憶喪失の役は、大体が『過去を取り戻すことへの恐怖』と向き合うことが多い。
しかしこの『アナスタシア』では、自身の過去=家族であり、アナスタシアらに全く罪が無いというのが前提となっている。
だからディミトリも『過去は忘れて、俺と一緒になろう!』などと口説いたりもしない(笑)

ストーリー的には、アナスタシアは家族を取り戻すため、ただそのためだけに一途になっている。

その一途さが星風からはひしひしと伝わってくる。非常に良い出来だ。
演出家には、アーニャのディミトリに対するナンバーを、もう一曲増やす考えはないだろうか?


以上、長くなり過ぎたので、
『アナスタシア』に対するグダグタは次の回に。