気付くかどうか次第なんじゃないか。そんな事を考えている。とある日。駐車場に車を停めよう。そこには1台分だけ空いていたとする。特には気にもせず又は気付かず、普通に駐車して普通に次の目的地へ歩いていくとする。これでは特に何も起こらない。ところが、ラスト1台だった事に気付き『うわー良かったあ』の一瞬があるだけで、その日は素敵に生まれ変わる。1日の景色は簡単に色を変える。駐車場料金が400円。たまたま100円玉4枚あってそれで払う。何も思わずそれで終わるか、ちゃんと運が良かったと認識できるかどうか。それを覚えていれば次に300円しか無かった時には、『いつもこういう時って1枚くらい足りないよね~』がなくなるか、なくならなくてもがっかり度合いは減る。だってぴったり足りた時もあるんだもん。運が悪かった風には思わなくなっていく。まさに良きパラレルワールドへの入り口は、ガッカリの緊急回避ダストシュートは、そこらじゅうにある。多くの場合、自分の中にある。これは生活上の運の話。

 リサーチ次第なんじゃないか。そんな話もある。とある日にいつも通り外出するが、天気予報は曇りのち雨、降水確率40%。とても微妙である。ちなみに自分は雨男又は雨女と自覚症状アリ。折り畳み傘をバッグに忍ばせ玄関を後にする。夕刻、帰り途中電車から降りた途端に雨が降る。道行く人は通勤カバンを頭の上に傘代わり。『あ~ぁ運が悪い』が自分のすぐ横をかすめて通り過ぎる。かわいそうに。そういう事だと思うんだよ。天気予報を見たか見ていないかは多分に漏れず、その用意周到は運も絡め取る。せっかくスマホがあるんだから、運転前に情報をチェックしておけば渋滞に巻き込まれて運が悪かったなんて事も回避できる。運とはリサーチでどうとでもなる。

 ところでここまでの言う運とはつまり数学的な話はさて置いてある。10枚のうち1枚だけ引いてはいけないジョーカーを三回連続で引いてしまうような、そう言う状況での話ではない。それはさすがに運が悪いし、設定が「引いてはいけなかった」だけで「引いたらすごい」となっていたら10%を3回連続で引けて強運だったはずである。設定次第。引いてはいけない方の設定だったという事を含め運は悪かったのかも知れないが。今日の本題である生活上の運とは、某所某時刻にイベント発生的に起こる日常現象でそれらはあくまで、受け止め方や印象に左右される傾向にあるんじゃないかと思うのが今回のテーマである。日常生活においての運は、本来の運という性質とはかけ離れている。

 例えば、ウ○チを踏んでも、その後宝くじが当たればウンがついたからだって、その後夕立ちに降られれば散々な1日だなって、その後違う足でまたウ○チ踏んでも倍のウンがついたはずだぜって宝くじへ走るのも、全てはキミ次第ボク次第、受け止め方次第。更にはジョーカーを3回も引いてしまって運は悪かったとしても、それで周りが盛り上がって爆笑が起きたならそれは幸運に他ならない。いわゆる『あいつもってんなぁ~』状態で笑いを提供できたならそれは運が良かったし、チーム対抗戦でジョーカー3連続により自分のチームが負けて変な空気になり、あいつのせいだみたくなったら、それはストレートに運が悪かった。

 運なんてのはきっと、数学の授業に限ってしっかりと%で意味合いを発揮する。運で一喜一憂するもよし。ただ今日書きたかったのは、運が悪い人というのは、意識の問題かリサーチ不足、自分が運の良かった瞬間を認知できていないだけかもしれないという事。運は自分で良くできるという事。あの人は運がいいよねってのは作れるはずだという事。もっと不思議なのは運が良すぎても怖いし悪くても怖がる。とどのつまり、みんなどこかでプラマイゼロの平凡を望んでいるのかもしれないなぁ。知らんけど。