「お前もか、ブルータス?」

シーザーは暗殺されたがローマは共和制には戻らず、三頭政治から帝政に至ったのは皆の知る通りである。

わたしはブルータスを始めとした暗殺者一味は、その場で取り押さえられて嬲り殺しにされたとか、
散りじりになって市井に潜伏していたところを捕り物よろしく捕縛されたとか、
いずれにせよ、昔のやくざの鉄砲玉のように、孤独で惨めな最後を迎えたものとばかり思っていた。

ここで「ジュリアス・シーザー」ウィリアム・シェイクスピア、福田恒存訳、新潮文庫、1968年」である。

『ジュリアス・シーザー』 ウィリアム・シェイクスピア、福田恆存/訳 | 新潮社

「ジュリアス・シーザー」によると、ブルータスは鉄砲玉どころか、共和制の擁護者として、人格識見と家柄ともに申し分なく、シーザーに勝るとも劣らぬ名声を得ている大人物であった。だからこそ、シーザー暗殺の陰謀を巡らす冷徹な策謀家のキャシアスは、シーザーを亡き者にした後の政界の混乱を収拾するには、ブルータスを担ぎ上げることが欠かせないと考えたのであろう。

ブルータスはシーザーに可愛がられており、ブルータス自身も人間的な魅力に富んだシーザーを敬愛している。一方、ローマの共和制が帝政に取って代わられることは政治的立場上、認めることはできない。ブルータスは悩んだ末、個人的な事情より、公の立場を優先し、暗殺の陰謀に加担することを決意する。それも首謀者として。更には自らシーザーに白刃を揮うのだ。

「お前もか、ブルータス?それなら、死ね、シーザー!」(65ページ)と叫び、シーザーは死ぬ。
シーザーの言葉に、私は、早朝の本能寺で、寄せ手は明智光秀と聞き、「是非に及ばず」と漏らした信長を思いだした。
明智の能力を認めていた信長同様、シーザーはブルータスを認めていたからこそ、ブルータスの裏切りに絶望の叫びをあげたのであろう。

シーザー横死を受けた民衆は、当初はブルータスらを帝政への移行を阻止した英雄として賞賛するが、アントニーの巧みな演説に扇動され、文字通り、舌の根も乾かぬうちに、ブルータスらを卑怯な暗殺者として断罪しようとする。都は騒乱状態となる。

騒乱をよそに、アントニー・オクテイヴィアス・レピダスの三頭政治の面々が、シーザー亡き後の各自の勢力範囲と政敵の処断について話し合う。どさくさにまぎれ、それぞれの政敵を200人ばかりを血祭に挙げたとか。アントニーは、シーザーの死に目にあったときの悲嘆ぶりは何だったのかと思わせるほど、冷静に利益調整を行う。やりきれないのは、レピダスをこき下ろすところ。彼が退出したあと、オクテイヴィアスに向かって、「なんの取柄もない、くだらぬ男だ、精々使い走りが分相応といったところさ」(93ページ)と吐き捨てる。このの成り行き上、三巨頭として政界を壟断するが、お互いにまったく信頼していないことが透けてみえる。

その後に展開される、ブルータスとキャシアスの、性格はぜんぜん異なるが、友人同士の人間味溢れる口論ぶりとは大違いだ。

ブルータス・キャシアスらとアントニー・オクテイヴィアスらは、フィリッピの野で交戦する。ブルータス・キャシアスらは劣勢とはいえ、彼らを慕う友人が軍勢とともに馳せつけ、ともに戦う。不幸な偶然が重なり、もはやこれまでと誤認したキャシアスが自刃し、ブルータス軍は総崩れ。落ち延びて再起を図るよう促す味方の言は容れず、ブルータスもまた自刃する。

しかしである。孫引きとなり恐縮だが、福田氏が解題で引用する「プルターク英雄伝」によると、実はアントニー・オクテイヴィアス軍は、補給が不調で糧食不足にあったうえに、じめじめした湿地に布陣していたため、戦争が長引いて冬にかかってしまうと、飢えと寒さから、一挙に士気が下がり、軍団が崩壊する危険があったというのだ。更にはブルータス側の海軍が、アントニー側の海軍の物資補給船を撃滅した一方、ブルータス側は十分な物資を備えていたという。情勢を知るアントニー側が一か八かの短期決戦に賭けたところで、キャシアスの不慮の死。薄氷の勝利だ。

最期まで読み終わった私は、ブルータスは理想化肌で現実に疎いところはあったにせよ、知謀の士たるキャシアスのほか、ティティニアスや小カトーなどの勇敢な仲間もいるし、陸海軍を動員できる財力と名声もあった。シーザーを除くにあたり、暗殺という手段を用いずとも、正々堂々と勝負できたようにも思われたが、よく考えると、暗殺直前の盛事のシーザーはあまりにも強大で、暗殺によるクーデタを行うほか無かったということか。

最後に。作中のキャシアスは非常に聡明で、ブルータスを押し立てた政権を打ち立てるため、シーザーともどもアントニーを始末するよう進言したり、アントニーの政治的生命を絶つために演説の場を与えないよう促したりするが、結局、公明正大な性格のブルータスの自由にさせてしまう。結果として、ブルータスとキャシアスともども破滅するわけだが。キャシアスはブルータスのそんな所に惹かれていたのだろうか。

聞くところによると、地獄の最下層で、イスカリオテのユダとともに、ブルータスとキャシアスはルシファーの責め苦にあっているという。これも友情のなせる業であろうか。