書 マタイ11章28~30節

 

28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 

 

メッセージ 「生きる希望、勇気、慰め」 滝本 文明 牧師

 

■(序論) 

今日の箇所は、聖書でよく知られた聖句ですね。教会の看板にも一番よく使われている箇所です。マタイが今日の言葉を述べたのは、西暦31年にガリラヤで伝道活動をしていた時でした。「わたしのところに来なさい」というイエス様の言葉を福音書に記したのは,マタイだけでした。かつて徴税人だったユダヤ人のマタイは、当時の人々が、ローマからの税や圧政的なユダヤ人の宗教指導者たちのせいで、苦しんでいるのをよく知っていました。

 徳川家康は「人の一生は、重い荷を負うて、遠き道を行くがごとし」という言葉を残しています。また、女流作家で「放浪記」で有名な林芙美子さんは詩の一節に「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」と詠っています。それでも、自分の人生に重荷なんか感じない、という方もおられるかもしれませんが、感じないのは今だけで、まだ疲れていないからにすぎません。

▼こんなことわざがあります。「最後の藁(わら)一本が、ラクダの背骨を折る」。ギリギリまで踏ん張って、ある日突然に倒れる。燃え尽きてしまって、立ち上がれなくなってしまう、という話はよく聞きます。燃え尽き症候群。家康は人生は長い旅だという。ということは、そのうちに必ず疲れてくる。今疲れていない人も、単に時間の問題にすぎない。そう考えると、イエス様の招きは、みんなに当てはまります。すでに当てはまっている人と、将来当てはまる人、のどちらかですからから、みんな招かれていることになります。

 

1)爽やかと安らぎ

 28節イエス様は、自分の所に来るようにと温かく勧めました。私から学ぶなら、爽やかになり心が安らぐと言われました。「疲れた人、重荷を負っている人は、私の所に来なさい。」こう勧められた人たちは、先ほど言いましたように、当時の宗教指導者たちに規則や伝統という「荷」を負わされていました。また、心配や苦労という重荷も負っていて、生計を立てるために長い時間、一生懸命に働かなければなりませんでした。「爽やかにしてあげましょう」。イエス様は、自分の所に来るなら、爽やかになり、安らぎを感じられる、と言われます。イエス様は、神様が本当に望んでおられることは何かを教えることによって、人々を爽やかにしました。(マタイ 7:24,25)そのことを知った人々は、間違った教えや厳しい宗教的な伝統から自由になりました。(ヨハネ 8:31,32)イエスが教えられたことを学んで、実践するには努力が必要でしたが、そうすることで爽やかさを感じることが出来ました。「私のくびきを負って、私から学びなさい。」という表現は「私のくびき(てんびん棒)を負って」とも訳せます。イエス様の時代の人たちは、木のてんびん棒を、肩に載せて重い荷物を運びました。「てんびん棒」また「くびき」という言葉は、権威や指示に従うことを指して使われました。 「私から学びなさい」という表現は「私の弟子(私から学ぶ人)になってください」とも訳せます。イエス様はここで、自分の後に従い手本に倣うことによって、弟子となるよう勧めておられます。

そうすれば、「あなたたちは、爽やかさを感じるでしょう。」イエス様は、すぐに、全ての問題から自由にすると言われたわけではありません。でも、人々が安心感や希望を持てるように助けらました。イエス様の教えを受け入れ、弟子になった人たちにとって、神様に仕えるのは重荷ではありませんでした。むしろ、本当の満足感を味わうことが出来たのです。(ヨハネ第一 5:3)

 

2)生きる希望、慰め

人は知らず知らずに、重荷を抱え込んでしまうか、重荷を背負って「へとへと」になりながらも歩いています。人生の重荷とはなにか。まず思い浮かべるのが思いわずらい、心配、不安、気苦労、プライド、自負心、などでそれらは人を疲弊させるやっかいなものです。重荷の原因は他にもあります。後ろめたい心の問題、犯してしまった罪です。罪は心の負担になり、それらは自分で解決して根絶しようとしても不可能です。だからと言って重荷の負担を軽減させるために、他の何かで気を紛らわしてみても無駄、その場しのぎで根本的な解消は出来ません。では自分の重荷は、他人に肩代わりしてもらうことは出来るでしょうか。人はだれでも、それぞれ自分の罪の重荷を、持て余しているものです。どうして他人の分まで引き受けられるでしょうか。 重荷の重さは他人には分かってもらえません。しかしイエス様は違います。「イエスは重荷を肩代わりして、わたしたちを休ませてあげよう」と約束されました。重荷を軽くするとはイエス様が、十字架によって私達の罪を取り去ることです。私達は、イエス様に近づき十字架を仰いで、救いを受け取る。救われることで罪の重荷は取り去られ、わたしたちの魂に休みが与えられ、安堵することが出来ます。

29節、30節「イエスのくびきを負って仕える」ことが勧められています。

イエス様の弟子となることは、師であるイエス様が考えるように考え、イエス様のあわれみ深さをこの世に示していくことです。多くの人が無関心で自分のことに忙しい世界で、誰かのために労を惜しまないで、ひたすらあわれみ深くあることは、愛と忍耐と勇気がいります。自分自身の善行に励むという、ガンバリではすぐに力尽きてしまいます。だからこそイエス様と共にくびきを負うのです。イエス様のくびきを負って仕えるとき、イエス様は奉仕の成果や達成度、完成の度合いなどで、その人の評価をくださない方です。農耕するために同じくびきを負った二頭の牛は歩調や進む道がそろっていないとそれは苦痛です。しかしそれがまったく一体となったとき、牛は楽をしながら二倍の高率で畑を耕します。イエス様と共なる歩みも同じです。ついには自分一人では到底なしえなかった仕事も、成し遂げられるということです。イエス様のくびきは「負いやすく」、罪のない荷物は「軽い」ので、私達は喜んで地上の人生の、あらゆる苦楽をこのお方と共に、歩めるのです。

 ルターは、「キリストを信じる時、喜ばしい交換が起こると言いました。キリストのもの(平安)が、私のものとなり、私のもの(重荷)を、キリストが引き受けてくださる、そこにこそ信仰による慰めがある」というのです。その結果、私たちは疲労困憊の最中にあろうと、重荷で押しつぶされそうになっていようと、なおしたたかに、生きている自分の姿を見るのです。私の重荷を主イエス様に預ける。そして、主のくびきを担う。それは主にすべてをゆだねて、主に従って歩むということ。その時重荷は重荷でなくなり、苦しみは苦しみでなくなるのです。いやそれ以上に生きる希望、勇気、力、慰めが与えられるのです。主イエス様のもとに行きましょう。

 

■(結論)

28節「 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」 29節 「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたも、わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、魂に安らぎが来ます。」   30節「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」