太平洋北マリアナ諸島テニアン島、昭和20年8月6日

アメリカ軍が ある特殊攻撃の準備を進めていました。

旧ノースフィールド飛行場です。

この滑走路から飛び立とうとしていたのは、B29の秘密部隊。

その目的は、人類史上初めての原子爆弾を日本に落とすことでした。

 

 

 

 

「特別な爆弾を投下する その日が…」

 

 

 

 

広島に投下された原子爆弾。

 

 

 

 

 

その3日後、今度は長崎で再び悲劇が繰り返されました

これまで原爆投下は、

日本にとって、全く想定外の奇襲攻撃とされてきました。

 

 

 

しかし、実際は、日本の諜報部隊が、

原爆投下を巡る動きを事前に察知していた ことが

明らかになってきました。

今も跡地に残る諜報用のアンテナ。

あらゆる方角に張り巡らせて、

アメリカ軍が発信する電波を傍受していたのです。

 

 

 

 

今回、私達は、わずかに残されていた機密文書や軍幹部の日記、

さらに、その肉声が録音されたテープを入手しました。

浮かび上がってきたのは、

軍が危険が迫っていることを知りながら、

何も手が打たれなかった という事実でした。

 

 

 

 

「広島の方へ入ってきた飛行機がある。

 B29、これは特殊任務機が近づいてきたと、

 これは ただ事じゃないと。」

 

諜報部隊は原爆投下の2ヶ月前から、

テニアン島で活動を始めた特殊任務機の追跡を開始。

8月6日も、広島に向かう その動きを掴んでいました。

 

 

 

 

さらに長崎では、原爆機が迫っていることを、

軍の幹部が5時間も前に知っていたのです。

何か、打つ手はなかったのか。

これまで固く口を閉ざしてきた当事者たちが、語り始めました。

 

 

 

 

悔しいったら ありゃしない。

わかってたんだから。

 

 

 

 

出撃命令さえ出していれば、絶対 長崎は爆撃されてないんですよ。

僕はもう確信してます、それだけは。

 

 

 

 

 

 

空襲警報さえ出されずに、

無防備のまま、原爆の熱線と放射線に襲われた人々。

広島と、長崎。

亡くなった人は、その年だけで20万人を超えました。

 

 

 

 

原爆投下を巡る情報がありながら、

なぜ それが活かされなかったのか。

被曝から66年、初めて明かされる真実です。

 

 

 

原爆投下の5時間前に、

原爆機接近の情報を、軍の中枢が掴んでいたという新たな事実。

本田さんは66年たった今、そのことを初めて知りました。

 

 

 

 

わかってた。

それで、何で命令だなんですかはてなマーク

5時間もあったら、十分 待機できたはずですよね。

それが日本の姿ですかね。

こんなことが また起きるんじゃないですか、

こんなことを言うとったら。

 

 

 

日本の降伏が決定的となった、8月11日。

特殊情報部に、ある命令が下されました。

諜報記録をはじめとする全ての証拠の隠滅です。

長谷川良治さんは、資料を燃やすよう命じられました。

 

 

 

 

焼けたら必ず、灰…粉にしなさいって。粉に。

残っとったら、ダメ…。

証拠隠滅。うん。

こういう文が無かったっていうこと。うん。

 

 

 

長谷川さんは、終戦を迎えるまで、

この場所で、資料を燃やし続けたといいます。

原爆投下をめぐる動きを軍が掴んでいた事実も、

すべては無かったことにされたのです。

 

 

 

広島と長崎。

無防備な人たちの頭上に相次いで投下された原子爆弾。

多くの尊い命と営みが、一瞬にして奪われました。