平安時代の女性の下着 | 夢みるバク

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日々、安らかに眠る為に・・如何に生きれば良いか、
恥ずかしながら、この歳になりて漸く気付きました。

家政学部出身の変な知識があるオヤジ。

純粋な変態では無いが、もしかしたら近いものはあるのかも知れない。


都が奈良から平安京に移ったのが794年、
鎌倉幕府が出来る1185年迄の約390年が平安時代。


平安の記事が多くなったということは、もしかしたらNHK❔

テレビは余り見ないので、世間に置いて行かれるオヤジ。


女性が上着の下に肌着を着始めたのは江戸時代から。

平安時代の女性は薄い腰巻のようなものを巻いていただけ。

それも、肌からの汚れ防止では無く、湯からの汚れ防止。

貴族はチト違って、今で言う袴のようなものを上着の下に着ていた。

平安貴族と書いても、その数は約1000人。

従五位以上を正式に「貴族」と呼ぶ。


平安時代のお風呂は今で言う「サウナ」のような蒸し風呂が一般的。

貴族のお姫様に至っては、長い髪を洗うだけで大変。

焼いた石に水をかけ蒸気を出して入ったお風呂。


但し、「伊予の道後温泉」と源氏物語にもあるように温泉はありました。

但し、上流女性は温泉にも入りませんでした。


勿論、庶民は温泉では無く、川でのカラスの行水。


貴族が蒸し風呂に入る時、女性は「湯帷子(ゆかたびら)」という薄い布1枚。

竹のスノコの上に座り、湯気を浴びるだけ。

ちなみに、風呂敷の元はこのスノコから来ているとか。


平安時代の貴族の屋からには「風呂殿」と「湯殿」の2つが備わっており、
「風呂殿」は上記のサウナ、「湯殿」は25cm~50cmの深さのタライのようなもの。

「湯殿」は浸かる為のものでは無く、手ぬぐいなどを浸けて体を拭くもの。

平安貴族にとって、お風呂は体を清潔に保つためのものではなく、
飽く迄も、「身を清める」儀式のようなもの、
当時は、体を洗うと毛穴から「邪気が入る」と嫌うご婦人も多かったとか。

例えて、髪を洗うのも、爪を切るのも、
「占いで吉日」と言われる日にしか出来なかった。


平均して、「風呂殿」は週に1回、「湯殿」は週に2回程度。

清少納言が書いている通り、時には「着物の上に乾いた垢が溜まっている」状態。

平安大好きな方には申し訳ないのですが、
変態オヤジは、平安貴族のセックスライフも教えられ知っている。

当時の男性の恋愛の大半は、今で言う「ストーカー」が殆ど。


この場に書きたいのはやまやまなれど、とても描けたものでも無い。

唯一「家政学部に入らなければ良かった」と思ったほどなのです。


男の私は、学生当時、
母校の近くの天王寺動物園のオスのチンパンジーの方が余程良い。

そう思ったほど・・と書いて、後はご想像の世界で締めたいと思います。


フランスの香水の成り立ちをご存じの方はご存じかも知れませんが、
平安時代の貴族の殿方もご婦人も、その体臭はフランスの比ではありませんでした。

簡単に書くと、部屋中「お便所の香り」

そこで、登場したのが「お香」

髪の毛も着物も、体も・・お香一色、部屋中がお香だらけ・・

平安貴族のご婦人たちは、トイレも部屋の中の「樋箱(ひばこ)」が唯一の場。

今で言う「福祉用具のベッドサイドトイレ」のようなもの。

話は幾らでも出て来ますが、もう止めときましょうね。