今年104歳になる母親が電話で言っていた。
「漸く、お前が言う幸せや喜びへの価値観を変えるの意味が分かって来たよ」と。
「外には出られずとも部屋の中からベランダの窓際まで行き裏山の季節の変わりを見て喜ぶ」
「例え、癌からの出血が続いても、それは体が己を守る為に出している血だと信じ喜ぶ」
「出来ない事を悔やまず、出来ることを喜ぶ」
「食べられないモノを欲せず、食べられるモノの味を味わう」
「お前が言うように、そうすれば、又春まで生きられる」
「やっと、穏やかな気持ちで過ごすことが出来るようになったよ」と。
私は願う、妻も同じように、ロシアやドイツへ行きたいと願うより、
近くの公園に行き、名も無い花や歩き回る蟻を見て、幸せを感じられる人になって欲しいと。
何時も、妻が花を飾っていたマンションの玄関にツリーを飾ったが、
本当は、道端に咲く小さな花1輪でも良いんだと気付いて欲しい。
「男は駄目だねぇ、雪の置き方の何と雑なことか」
杖が無いと歩けないではなく、杖があるから歩けるのである。
幸せや喜びは、求めるものでも無く、探すモノでも無く、知るものなのであろう。
出来ない事を嘆くより、出来ることで喜ぼう。
今、私の倖せや喜びは、単に全てが自己満足に過ぎない。
従って、病に痛みや苦しみに耐えるより、
食パン1枚に、瓶詰のイチゴジャム一瓶分を盛り上げ食べて死を待つ時を過ごすのである。