(2017年6月13日10:49投稿)

(2024/06/11,再投稿)








前述の「親切って何だろう?」で述べた、自称・日系イギリス人にはホトホト参った。



その当時の私は、勤めていた会社の給料が、まあまあ良かったので…、

その時代は高価だった極真の選手権大会のビデオを多数購入し、同じ極真会館総本部で汗を流す仲間たちをよくアパートに招き、見せてあげたりしていたが…、













彼がアパートに来ると、あれが食べたいから買ってきて御馳走してくれ、これが食べたいから買ってきて御馳走してくれ、などと我がまま放題に言い出し、私に買ってこさせ、挙げ句に、

「ここ、俺たちのアジトにしようぜ。」

などと、勝手な事を言っていた。は?、…アジトって?、じゃ、私がたった一人で、場所とビデオと飲み食いするものを全部準備してあげて、もてなしてやる、それがアジトなの?

たまらない。



何だろうね…、

親切って、親切される側に甘えの意識を持たせて、向上心や自立心を無くさせるものじゃないの?。

親切って、人を堕落させる悪いものじゃないの?。



「髪結いの亭主」って、言葉あるよね、

~女房が髪結いに為れば、稼ぎか良いから亭主は労働意欲を失い、ヒモになり、カフェに入り浸りになり、挙げ句にカフェの女給と間違いをおかし、妊娠させてしまう。~

昔々のたとえ話だ(笑)。





親切って、人を堕落させる悪いものじゃないの?



相等悩んだよ。




結論としているのは、親切をするなら小さな親切が良い。大きな親切は自分自身を圧迫して壊してしまう上、相手も甘やかせて堕落させてしまう。












そう、親切をするなら、自分のできることからの、小さな親切がいい。












たまたま、持ち合わせがなくて、お腹が空かせた友人に、

「じゃあ今日は、私がなんか奢ってやるよ。遠慮するなよ。



ということは普通によくある。













問題なのは…、



それが当たり前になってしまい、最初から奢られることを前提として、生活設計をする人間がいる、ということだ。

現実にそういう人間は存在する。そう、残念ながら、確かに存在するのだ。




前述した自称・日系イギリス人がまさにそうだった。







親切とは、親切を受ける側にも事情はあるが、親切をする側にも事情ある。



親切を受ける側が、親切をする側の経済事情を考えずに、あれが欲しい・これが欲しいということは、あってはならないのである。

親切を受ける側が、親切をする側の時間の都合も考えずに、あれもやってくれ・これもやってくれということは、あってはならないのである。




親切は両刃の剣である。



親切は、親切を受ける側の心に甘えを生み、自立心や向上心を無くさせてしまう。
親切は、親切を受ける側を堕落させてしまう。


その自称・日系イギリス人は、

「求められたら、与えてくれ。」

と私に言った。

おそらくそれは、キリスト教の基本精神であると、言いたかったのだろうが…、

求められたら何でも与えてくれる友人が近くにいたら、その人間は働くことも、何かに努力をすることも一切しなくなってしまう。破綻した理屈である。



それは、



“他人に厳しく自分に甘い人間”



を産んでしまう。